私と、スウェーデンハンドセラピー!

⚫︎まずは自己紹介!

はじめまして、ダールマン容子と申します。

私はスウェーデン人のパートナーとの出会いにより2006にスウェーデンに引っ越しました。以来今年でスウェーデン在住13年、2児の母として育児に仕事に奮闘しつつ、スウェーデン生活を送っています。

スウェーデン移住前に関わっていた仕事の関係もあり、2007年にスウェーデンやフィンランドから北欧のデザイン商品や生活雑貨品を日本に輸出し卸販売する会社を立ち上げ、昨年からはネットショップも開店、日々試行錯誤で奮闘しています。

ちなみに私の北欧雑貨のお店のリンクはこちらです:

www.sopiva-hokuou.com
(ネットショップ「ソピバSOPIVA北欧」)
http://blog.sopiva-hokuou.com/
(ショップブログ「ソピバ北欧だより」)
www.ditt-datt.com
(卸販売「ディット・ダット Ditt-Datt」)

さて、そんなふうに私は普段スウェーデンの地で「デザイン」「雑貨」「インテリア」という業界で仕事し、そのような方面のスウェーデンと関わっています。

そんな中、2年前ご縁あってこちらの北欧福祉研究所のスウェーデン現地視察に、現地コーディネート・通訳として関わる機会をいただきました。それはスウェーデンでも日本でも福祉や医療に仕事として関わったことのない私にとって、とても新鮮で刺激的なお仕事でした。

⚫︎スウェーデンの福祉というと

さて「スウェーデンの福祉」というと皆さん何を思い浮かべますか?

ゆりかごから墓場までの手厚い福祉…
育児休暇大国…
高負担高福祉国家の代表…
高齢者がいきいきと暮らす国…
寝たきり老人がほとんどいないとか…

などなど、日本でも近年は北欧型の福祉が見直される機会もあり、「スウェーデンの福祉」について見聞きされる機会もあるのではないでしょうか。

私のように医療や福祉とは関係ない仕事をしていても、さすがに13年も暮らしていると、日々の暮らしの中で「スウェーデンの医療や福祉」をリアルに体験することがあります。

例えば妊娠、出産。
例えば育児。
例えば子供の保育園や学校。
そしてもちろん自分や周りの人間がかかわる医療。

医療や福祉は、世界中どんな場所でも、誰の生活にとっても実はとても身近にある大切なものです。

⚫︎スウェーデン、他者に対する考え方

日本のメディアを見ていると、スウェーデンの福祉政策はあたかも理想であるかのように語られているのを目にすることもあります。
しかし、実際スウェーデンに暮らす人たちの間ではその政策やシステムは賛否両論。さらに私のようにスウェーデン以外の国で大人まで成長してからこの国に移住した人間の目から見ると、

「え?」「それ不便すぎ!」「ちょっとまってよ!!」

と、思わず声に出して怒ってしまいそうになる場面もたくさんあります。
しかしそれでも、私はこのスウェーデンという国の福祉には

「人間が人間らしく生きる大切な何か」

が隠されていると思っています。
これは実は福祉の世界にとどまらず、スウェーデンの人たちの一番根本的なところにあるものだと感じています。

私にとってスウェーデンと日本は、どちらが優れている、どちらが劣っているという比較をする対象ではありません。
どちらも私にとって大切な国で、どちらも素晴らしい国だと思うからです。
でも、そんな中で私が「スウェーデンの暮らし」で、「特別だな」、「すてきだな」、「見習いたいな」、と思う点は、実はその政策やシステムではなく人々の「他者に対する考え方」という根本の部分です。

大人も子供も。
障害がある人もそうでない人も。
同性愛者も異性愛者も。
認知症の人もそうでない人も。
「普通」の人も「普通でない」人も。

全ての人を一人の人間として「尊重」しその個人の「尊厳」を大切にする。

ここに、スウェーデンの福祉を始めスウェーデンという国の魅力があるのです。

⚫︎スウェーデンハンドセラピー

さて、そんな私が「スウェーデンハンドセラピー」というマッサージの存在を知ったのは北欧福祉研究所の現地視察に同行した際です。
その際スウェーデン在住の大先輩で、日本のスウェーデンハンドセラピーの第一人者でいらっしゃる大瀧昌之先生にお話を伺う機会がありました。
その後「スウェーデンハンドセラピー」の存在に興味を持って色々調べてみると…

「このスウェーデンハンドセラピーというマッサージには、スウェーデンの他者に対する考え方の根本が凝縮しているのではないか?!」

と思うに至りました。

そこで先日、スウェーデンで行われている「スウェーデンハンドセラピー」、タクティールマッサージの養成講座に実際参加して、自らその世界を体験してきました。

さて今回は前置き…なのにずいぶん長くなってしまいました(笑)。
次回からは、その養成講座の様子について、書いてみたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。
どうぞまたお付き合いいただければ嬉しいです。

ハビリテーションって、何をどうするの?

ハンディキャップということ

「元の状態に回復させる」ためのリハビリテーションではなく、「持っている機能を生かしてさらに発達させる」というハビリテーションの考え方は、障害という事について今まで私たちが持っていた概念や姿勢などについて、考え直す必要性をもたらしました。

つまり、ハビリテーションという観点から見ると、障害自体がハンディカップなのではなく、ハンディカップは、その障害を持つ状況が周りに適応しない場合に生ずるということです。

例えば、メガネやコンタクトレンズを必要とする人は、強度ではないにしろ、いわゆる視覚に障害があるわけですが、暗闇の中や眠っている間は、メガネやコンタクトレンズがなくても、もともと見ることをしないので、それが全然問題にはなりません。

また、一人で目を瞑って考え事をする時など、要するにものを見る必要がない時は、それは不自由とはなりません。

ところが、何かを見る必要がある場合には、ものが良く見えないということは不自由であり、生活をする上でハンディが生じます。
それでメガネを必要とするわけですが、メガネをかけると、「ものが良く見えない」というハンディはなくなります。

つまり、障害はハンディカップとは同義語ではないということです。

この観点が、やがては国連においてWHOの国際障害分類(ICIDH)の基盤となり、1980年の分類では機能障害→能力障害→社会的な不利=ハンディカップというように定義されるようになりました。

また、障害がハンディとならないようにするためには、障害を持つ人を周りの状況に合わそうとするのではなく、周りの状況を、障害を持つ人の条件に近づける対応が必要になるということです。

メガネになること

一般的に、メガネやコンタクトレンズを使用している人のほとんどは、自分が視覚障害を持っているということは、普段考えないでしょう。

昔はともかく、今はメガネをかけたりコンタクトレンズを使用するというのは「誰でもしている」ことで、他から見ても「あの人は視覚障害者である」という見方はされないのが普通です。

なぜかというと、つまり近視や遠視などでメガネをかけると普通に生活できますから、自分でも障害を持っているということを意識しないで済むわけです。

視覚障害に限らず、他の障害を持つ人も、何かの手段や補助があって生活に支障がなければ、障害という概念も変わってきます。

ハビリテーションを適応化していくということは、極端な例えですが、つまりは「メガネになる」とも言えるのではないでしょうか。

曜日は色で覚えれば…

ハビリテーションの具体化では、例えば駅などで車イスを使う人にはエレベーターが必要というような社会的な対応もありますが、

認知や知的な機能に障害がある人には、いろいろな概念や考え方を我々の概念や知識に近寄せようというのではなく、彼らの能力や思考に合わせていくという姿勢が必要になります。

ここで、教育的なことを考えてみましょう。

左の写真は、ストックホルム市にある重度の知的障害児の養護学校です。

手にしているものは色のついた布地ですが、実はこのそれぞれの色は曜日を意味しています。

重度の知的障害を持つ児童に曜日を教えようとしても、「月曜日」と「火曜日」は何がどう違うのか理解することが難しい場合がありますし、言葉や文字も理解できないことがほとんどです。

この場合、重度な障害ということで「ゆっくり教える」といっても、重度な知的障害を持つと、その言葉自体の概念がわかりません。

しかし、これを色で例えるとすると、色という視覚的なものはその違いが理解できます。「今日はこの色の日、次はこの色の日」ということであれば、日が違うことの概念も覚えやすくなるでしょう。

このようにして、スウェーデンの重度・知的障害児の養護学校やデイセンターなどでは、全国共通の「色のカレンダー」があります。月曜日は緑、火曜日は青・・・という具合です。

つまり、重度の知的障害児のほとんどが理解できない概念である、曜日のことばやその文字を教えようとするのではなく、要はその違いが理解できるような方法を選択するということがより重要です。

ハンディキャップということは、つまりは「自分が抱える障害自体がハンディカップなのではなく、ハンディカップは、その自分の持つ状況が周りに適応しない場合」に生ずるということだとすれば…

ハビリテーションを行うためには、

「こちら側の状況に合わせて、その人を矯正したり教育する姿勢」ではなく、「その人の状況に、こちら側の条件が合うよう」に、どのようにすればそれが可能であるかを考えること、そしてその姿勢を保つことが必要です。