大化の改新は、本当にもう終わったんだろうか?

公と官・民という関係

大化の改新は本当にあったのかとか、聖徳太子は実存したのかという疑問の説もあるようだけど、しばらく海外に住んで日本と違う価値観なんかも実感して、改めて日本のあれこれを考えてみると…

どうも日本じゃ まだ大化の改新は終わってないんじゃないかって気がしてくるんですよね…。

律令制度というのが鎌倉時代になくなり、サムライの時代になると、やがては下剋上なんか起きたりして…もっと後になると公家さんというものの権威なんて疑わしくなるような時代も長く続いたんだろうけど、

明治になると、またあの「公・官・民」という関係が戻って来て、また僕ら日本人には、それが精神構造の土台になって来たような気がするけど、どうなんだろうか…?

大化の改新以来、「官は公のために民を司る 」みたいなことが、ずっと僕らの頭の中に根を下ろして離れないんじゃないかって思うんです。

昔は、官僚になるためには東大寺で六法を学ばなければいけなかったらしいけど、今ではそれが東大・京大とかいうピラミッドになって幅が広くなっただけで、

世間の家庭では、「叶うなら、自分のこどもは東大を出てエリートになって欲しい」と思っているんじゃないですかね?
日本で純然たるエリートといえば、正に官僚に他ならない…でしょ?

明治維新後から戦前までは、日本の官僚は天皇に仕える役人という位置づけだったそうな…。
今は憲法で天皇は国民の象徴ということになったから、官僚も天皇に仕えるんじゃなくて、そこは国民に仕えるってことなんだろうけど…

昔の「公」というのが「国」とか「国民」になったとしても、今の霞ヶ関のお役人は、まだそういう「官・公・民」というか、「官は国のために民を司る」みたいな特権階級意識を持っていて、僕らも無意識でそう認めてるとしか思われない…。

いろんな議論はあるにせよ、今の日本人の多くは「政治は、実は霞が関の官僚が行ってる」と思っているでしょ?

実際、法案を作る時も官僚の手出しなしでは出来ないような仕組みにもなっているらしいし、多くは官僚が作成したものを、政治家がちょっと手直しして国会で審議して終わり。

最近は、少し政治の力というか「官邸」なんかが強くなって、「忖度」っていう、今まで全く知らなかった言葉も流行ってる時代になって、官僚も「官邸」とかに弱くなっているように見えるけど、

そう見えるだけで…

実際に政治家が強くなり過ぎると、官僚からのリークなんかでスキャンダルになって…辞任させられたりして…。

「政治家主導の政治を」なんて御託を並べても、政権が代わってもそれは同じだったし…

もう、明治時代に廃藩置県をやって士族が平民になったよりも、もっと大きい改革でもやらなければ無理だろうと思うのは僕だけだろうか?

どだい民主主義っていうのは三権分立、つまり司法と立法、それに行政はそれぞれ分権しているというのが建前だけど、もし官僚が法律を作って行政を握っているとすれば、こりゃもう民主主義でもないわけだ。

「政・官の癒着」なんてのも、耳が痛いほど、目が腐るほど見聞きしてるけど、政治家と官僚の癒着なんてものはその「非民主主義」の最たるもんで、これがダラダラと続いているのを許している僕ら国民って、一体何なんだろうね。
つまりは、官に支配されている民ということなんだろうか?

…だとしたら、やっぱり日本はまだ大化の改新以来の構造が続いているっていうか、大化の改新はまだ終わってないっていうことじゃないのかな?

大化の改新は孝徳天皇二年春正月甲子朔(西暦646年)に発布というけど、えっ、それじゃあ1300年以上も前になるわけだ。
う~ん、1300年以上も前からの精神構造か…これは続くわね…多分これからも…