日本公演ツアー(その3)

⚫︎EKO公演の影響

EKOの日本公演は、その後1994年、96年にもそれぞれ全国縦断ツアーの形で行われました。

94年には7週間という長い滞在で、合計18ヶ所での公演、また96年には3週間で8ヶ所での公演が行われました。
3回の全国公演で、合計38ヶ所での公演が行われたことになります。

それぞれのツアーにはそれなりの特徴があり、また日本の障害者福祉に関わる状況も毎回来る度に前向きに変わってきましたが、第1回目の全国公演の時と比べると、共演するグループの演奏の種類が少しずつ変わってきました。
第2回目からは、僕らと同じような形で演奏するバンドがだんだんと増えてきたのです。

これは主催者の方のコーディネートによるのかもしれませんが、EKOの第一回公演の後に出来たグループとも共演しました。
それらのグループの全部ではないにしろ、そのいくつかは、それまでのEKOの公演に刺激を受けてバンドが結成されたということです。

音楽グループとしてのEKOに対する評価は、様々でした。

障害者と健常者が同じ次元で演奏するということでの好意的な評価もあれば、ギターやベース、ドラムというメインの楽器を演奏しているのはリーダーで、障害者のメンバーは打楽器などを演奏していると批判的に見る人もいました。

また、EKOのあり方を音楽療法という範疇で見る人もいれば、健康そうな障害者が舞台で演奏するのは音楽療法ではない、という人もいました。

それぞれの評価は、評価する人の立場や、またその人なりの福祉観、音楽療法観を表しているということであろうし、評価はいろいろあるのが当然です。

しかし、障害を持つ人が自由に伸び伸びと演奏することを目指したグループがあちこちで生まれたことを考えると、それが音楽療法であろうがなかろうが、障害を持つ人が音楽を楽しむことで自分を発揮し周りと共感を分かち合うということへの理解が深まり、またそういう場が増えてきたことも間違いないのではないかと思います。

総体的に日本でのEKO公演に対する受け取り方を考えてみると、日本でのリハビリ的な考え方や姿勢の中で、障害を持つメンバーそれぞれがその個性を表現して、まるで「障害を持っていて、どこがおかしい!」とでもいうように、自分に誇りを持った姿を観客に曝け出すEKOのメンバーの姿が、特に障害者福祉に携わる人たちの間で、新鮮なインパクトになったのではないかと思うのです。

EKOは、98年にもう一度日本での公演を行いました。

その時は、EKOの公演というのではなく、それまでEKOの公演で共演したグループや、またその後に出来たグループがいくつか集まり、「響き合いのフェスティバル」という舞台芸術のフェスティバルが行われたのですが、EKOは客演ということで参加しました。

出演したのは、音楽や舞踏、また和太鼓といういろいろなジャンルのグループで、それぞれ全国から集まってきたのです。

どのグループも非常に高いレベルのパフォーマンスを披露し、見ていた僕らも感嘆の声を上げたものでした。

⚫︎音楽療法か音楽活動か?

特に日本での公演の際によく聞かれた質問の一つに、EKOは音楽療法のグループであるのか、それとも音楽活動をするグループなのかということがありました。

この話題は、特に日本公演の時に、いろいろな形で取り上げられました。

おそらく、僕の肩書きの一つに音楽療法士というものがあったのと、僕自身、EKOは音楽療法のセッションから出発したと紹介したことにもよると思いますが、その他にも、ちょうど僕らが最初に公演を行なった90年代の初め頃には、日本でも音楽療法という概念が広がりつつあって、音楽療法に対する関心が深まっていたという背景があるのではないかと思われます。

各地でマスコミの取材を受けた時は、ほとんどのジャーナリストが音楽療法について質問をしていたし、中には、メンバーの何人かに「音楽をやってから、自分はどう変わりましたか?」などと聞いていたアナウンサーもいました。

その質問がなされると、カメラの周りにいた関係者は真剣な顔をしてメンバーを見つめ、まるで何か神託を伺うかのようにメンバーの言葉を待っていたようにも見えました。

聞かれたメンバーたちは、それぞれ「何も変わってない」と答え、そうすると質問したアナウンサーや周りの関係者は、納得いかないような顔つきをしていたものです。

僕自身は、カメラに向かっていろいろ説明するわけにもいかず、傍で苦笑するのがせいぜいでした。

どだい、自分の状況を把握して、音楽を始める時と今の自分を比べて、音楽をすることによってどれほど自分に成長があったかを論理的に説明出来るのなら、知的障害というものの概念を考え直さなければならないでしょう。

この他にも、「健康そうな障害者が舞台で演奏するのは、音楽療法といえるかどうか」といった声が聞こえたり、「EKOのあり方は、私たちの考える音楽療法とは違う」と公言した音楽療法研究所があったりとか、とかく話題になったものです。

しかし不思議なことに、EKOのあり方やセッションの方法などについて、僕に聞いてきた人も少ないのです。
ほとんどの場合、僕の肩書きとEKOの演奏を見て、それぞれの音楽療法論に当てはめて、それが音楽療法であるか否かを考えていたようでもありました。

もちろん、EKOのあり方や舞台での姿を音楽療法と捉えている人も少なくありませんでした。

しかし、そういう人は「音楽療法で、メンバーはどう変わりましたか」とは聞かないし、またEKOの何がセラピーなのかも、あえて聞きはしません。

ここで念のために断っておく必要がありますが、僕自身、単に舞台で演奏することを目的とした音楽活動と、対象になる人の状況を把握して、より良い状況になるように意図的に働きかける音楽療法の活動は、それぞれ違うものであるという認識を持っています。

舞台で演奏するのは楽しいから、そこで演奏するために集まって音楽をするという場合には、楽しく演奏することが目的であり、その方法もそれぞれが快適に感じて演奏することに満足するものであれば、どんな方法でも良いわけです。
どういうことをするのかは、みんなで決めるという方法もあるでしょう。

これに対して音楽療法の場合は、セラピストあるいはリーダーになる人が、グループや参加するメンバーの状況に対応して、その状況がより快適な状況になる方向性を見つけて、そこに到達するように音楽を意図的に使い、出来るだけその目標に近づくようにするものである、と僕は認識しています。

なので、舞台で演奏するという形からだけでは、それが単なる音楽活動なのか、あるいは音楽療法といえるものなのかを判断することは難しいものです。

それは、その舞台に上がるまでの練習や活動をリードしている人の考え方や方法などの中身によるもので、舞台での演奏という、ある限られた時間の中で見ているだけでは中々わからないものです。

EKOのあり方を音楽療法として捉えた人たちの多くは、舞台で演奏するという形を見ていたのではなく、そこにあった姿勢や関わり方を見ていたのだろうと思います。

⚫︎スウェーデンでは…

EKOの活動が音楽療法かそれとも音楽活動かという問いは、実際の話日本でしか聞いたことがありません。

EKOが訪れた他の国では、もしかすると音楽療法という概念がそれほど広がってなかったのかもしれませんが、そういう質問を受けたことは記憶にないのです。

スウェーデン国内では、デイセンターで音楽をしていない時にはどういう作業をしているのかとはよく聞かれましたが、それが音楽療法であるかないかという議論は今まで聞いたこともありません。

おそらく、音楽というのはそれ自体が療法的な要素を持っていて、それを使うことは障害者のハビリテーションに有効であることは、少なくとも障害者福祉に関わる者であれば大方が共通の理解を持っているので、あえて音楽を使う上での意味などの説明付けを求められることがないということでしょう。

またスウェーデンでは、リトミックが、それをどう呼ぶかは別にしてほとんどの幼稚園で行われていますし、また特別教育の中でも、以前から「社会的、教育的療法」の流れの中で、音楽やリトミックというものが絵画や他の芸術分野と一緒に広く使われていることも挙げられます。

知的な障害を持つ人が音楽活動に参加する場合は、自分のやっていることが音楽療法であるという認識はないし、自分が何かの意味で変わるために音楽をしているとは、まずほとんどは考えていません。

僕自身、彼らを変えるために音楽療法をやっているわけではないのです。

前にハビリテーションということを説明しましたが、障害を持つ人が社会参画していくために彼らを変えるのではなく、彼らが自分というものを認識して、自分であることに自信を持って自分を表現し、前向きの形で社会参画が出来るような状況を作り出すための音楽活動なのです。

⚫︎すべて、音楽の活動

ここで、デイセンターで音楽を作業として行う場合の、いろいろな捉え方を話してみたいと思います。

デイセンターなどでの音楽活動の場合、音楽を担当する指導員は学習連盟からサークル指導員として派遣されるという話は前にも述べました。

学習連盟が行うサークル学習は、いわゆる生涯教育と呼ばれるもので、つまり学習することが目的です。

一方、デイセンターの役割は障害を持つ人の日中活動を保証するものですから、彼ら自身の日常生活における活動を作業として行う場所です。

そこで、音楽セラピストである僕がデイセンターで音楽セラピーを行うわけですが、僕を派遣する学習連盟では、学習の時間に「セラピー」をするというのはその趣旨から外れていますし、またデイセンターとしても、日中活動を行う場所で作業の時間にセラピーを行うということを公言するわけにもいきません。

なぜなら、セラピーとは、個人個人の状況に対し専門家が個人的に対応するもので、それをデイセンターでの仕事として行ったり、また学習として行うものではないからです。

ところが、学習連盟でもデイセンター側でも、僕の行っているセッションは音楽療法であるという認識は持っているのです。

複雑に聞こえるかもしれませんが、音楽というものは、それ自体が療法的な要素を持っているものであり、単に障害を持つ人と音楽をすることが音楽療法でもなければ、あるいはそれらの方法に特別な名前を付ける必要があるわけでもありません。

学習と呼ぼうが作業と位置づけようが、あるいはそれを音楽療法と言おうが、結果として対象となる障害を持つ人が生き生きとして、より快適な生活が出来ることにつながるのであれば、それを何と呼ぶかということは、あまり意味はありません。

加えて、それが音楽療法であるかないかを決定するのは、本来は、それを受けている人であるはずです。

どんなに立派な理論を持っていてもスキルが優れていても、受けている人がそれによって生き生きとして快適に思わなければ、またそれによって前に進む力が湧くものでなければ、それは療法とはなり得ないのではないだろうか…。

また、それを音楽療法と呼ぶのであれば、そのやり方が療法的であるばかりでなく、目的や意図とか手法、さらに対象になる人が前に向かって進む道筋を説明出来なければならないと、僕は思うのです。

そして、「療法か活動か…」、これも厳密にいえばおかしい問いかけではないでしょうか…。

音楽療法といえども、あるいは音楽教育にしろリクレーションにしろ、音楽を使っての活動であるならば、要するに、すべては音楽の活動なのではないかと僕は思うのです。

少なくとも、スウェーデン語的には、そういうことです。

⚫︎決めるのは自分 本人とゴードマン

マリアは、自分の希望であった「パーソナルアシスタント」を雇って、アパートで自立生活をしています。

それは彼女が望んだことであり、彼女の意思によって彼女自身が決定したことです。

「障害者ケア」の基本的な考え方として、社会は障害を持つ人が自分の意思で決めたことが実現出来るように支援する、ということがあります。

しかし、誰もが自分の意思で自分のことを決めることが出来るというものでもないし、特に障害を持っていると、その障害のためにそれが難しいことが多いものです。

また、自分で決めたことや自分の意思が通らない時に、それを申し立てたり、物事を前向きに推し進めていくことも難しいものです。

そのために、障害を持つ人には「ゴードマン」という支援制度があります。

これは、その人の代理人として、その人を代弁したりその人の権利を護る人を、申請により裁判所が認定していく制度です。

簡単に説明すると、例えばEKOのメンバーが外国へツアーに行くとか、あるいはグループホーム全員で外国に行くという場合には、ある障害者が飛行機というものや外国ということを理解してない場合には、「行く、行かない」の答えはゴードマンがするということです。

マリアの場合は、大概のことは自分で決められますが、例えばお金などの管理は難しいし、また、もし彼女の意思が通らない場合に、いろいろな方法でそれが可能になるように自分で進めていくことは難しいわけです。

なので、マリアもゴードマンを持っているし、ゴードマンはマリアの利益を擁護する者として、マリアにとってのベストを考えなければなりません。

市自治体(コミューン)は、その人に知的障害があるとゴードマンをつけなければならない義務を負っています。
もちろん本人には経済的な負担は全くかからず、無料です。

とにかく、そんなわけでヤンネもアンダッシュもゴードマンを持っており、他の多くがそうであるように、二人のゴードマンはそれぞれ彼らのお母さんです。

このように、家族や親というものは一番本人に近いので、ゴードマンになっている人が多いです。

しかし、家族とゴードマンというのはそれぞれ性格が違うものなので、親であることによって子どもの決定にネガティブな影響が出てはいけないし、そのことは裁判所から認定される時にも念を押されます。

ヤンネとアンダッシュは小さい時から同じ地区で育ち、幼稚園も特別支援学校もデイセンターでも一緒でした。

エクトルプ・デイセンターに通っていた頃はそれぞれ両親の自宅に住んでいましたが、EKOデイセンターに移ってからは、マリアと同じグループホームに住むことになりました。

そこで、デイセンターに通うのに、バスを乗り継いで通うか、それとも交通サービスにするかということで議論になりました。

ヤンネとアンダッシュはバスで通いたいと言うし、お母さんたちは、彼ら二人だけでバスを乗り継ぐのは無理だと言う。

またデイセンター側は、ヤンネとアンダッシュが出来るかもしれないから、やらせてみた方が良いのではないかという意見でした。

結果的には、その二人やお母さん方、それにグループホームとデイセンターという全部が話し合って、二人が慣れるまでグループホームの職員が付き添いでバスに乗り、慣れたのを見届けてから自分たちで通うということになりました。

お母さんというものは、子どもの可能性に自信が持てない場合も多いのですが、ゴードマンであったとしても、やはり本人の意思に勝るものはないのです。

⚫︎メイキャップとサウナ

EKOデイセンターのスタジオには、稽古場としてのステージやちょっとした客席になる空間の他に、ステージに面して録音スタジオや、またメイキャップの部屋があります。

演奏会がある時には、会場にメイクや衣装替えの場所があればそこで行いますが、そういう楽屋的なものがない場合など、スタジオにあるメイク室で衣装に着替えたりメイクをして出かけます。

もちろん、男性はあまりメイクをしませんし、洋服を着替えるのも手軽なので、メイク室の利用者は女性のメンバーが多いです。

このメイク室はそんな便宜上のこともあって特別に設計したのですが、実はもう少し違う思惑がありました。
実際には、メイクなしで演奏することも結構あったのです。

思惑というのは、一般的に知的障害を持っている人というのは、自分がどう見えるかについて概して無頓着なことが多いので、自分の姿というものにもう少し関心が持てたら…という思いがありました。

メンバーの中でも、アンやスッシーなどはファッション雑誌を見るのが好きで、時々「うわー、この女性素敵だ!」などと感嘆することも多いのですが、それはまったく自分とは関わりがないと思っているようでもありました。
あるいは、自分はそうなれないと思っていたのかもしれません。

そんなこともあって、演奏の時にはなるべくメイクをするようにしたし、またデイセンターの日課にも、女性メンバーにはスタッフのアニカやビルギッタ、ギュードルンドなどとメイクする時間を組み入れました。

しばらくすると、アンはデイセンターに化粧をして通ってくるようになりました。
毎日ではないですが、時折そんな気分になると、自分のグループホームを出る前に化粧をしてくるらしい。
そう思って見ると、その頃から彼女の着ている服にもセンスが出てきたように思います。
単に自分の持っている良い服を着るというだけではなく、流行のファッションものも買ってくるようになったらしい。

ネッタンは、特に背が高いし脚は特別長いです。

自分では言いませんが、自分の姿が普通とはどこか違うこともわかっているようでした。
なので、メイクをし始めの頃は、「したって、しょうがない」みたいなことを言っていたようです。

ところが、彼女がいつも行っている障害者向けのFUBダンスに行くと、周りから「見て、EKOのネッタンだ!」と言われはじめて、彼女もメイクに関心を持ったらしい。

それからは、FUBダンスに行く時にはメイクをするようになり、周りから「ネッタンだ!」という声が聞こえると、手で髪をすくう仕草をするようになったということです。

EKOデイセンターには、この他にサウナ室があります。
フィンランド式に、熱い石に水をかける本格的なものです。

このサウナも、やはり日程の中に男性、女性に分けて組み込まれていて、作業とか活動というよりは、むしろリラックスの時間として過ごしました。

サウナは熱すぎてあまり好きでないというメンバーももちろんいますが、男性陣ではペーテルや、ヤンネとアンダッシュのコンビが愛用者です。

そしてスタッフのペーテルと一緒に入り、「身体はやっぱり手入れをしないと…」みたいな感じで、衛生や身体を鍛えるようなことも話すのですが、「男同士」の話をすることも多い…。

彼らが「男同士」の話でどんな話をしているのか詳しくは分かりませんが、どうせ、僕なんかも他の男同士で話す内容とはそれほど変わりはないと思っているので、あまり聞いたことはありません。

でも、そのせいもあってか、日本公演も回が増えるようになると、ヤンネやアンダッシュと話をすると、「カッコいい」日本の女性の話が出ることも多くなりました。

今までは、例えば見学などで人が来ても、特に女性に目が向くということもなく、職員は職員、お客さんはお客さんであったのが、しばらくすると、女性のことは「可愛い」とか「カッコいい」とかの評価をするようになってきました。

メイク室もサウナ室も、元々そのような意味で設けたわけではないし、デイセンターの日課としては贅沢に聞こえるかもしれませんが、世間での「君と僕」の関係があって自然に暮らしていくには、音楽ばかりでなく、そんな「普通のこと」も大事だろうと思うのです。

⚫︎そして、今…

僕がEKOデイセンターを依願退職してから、すでに20年という時が経ってしまいました。

その間、EKOのスタッフやメンバーにも変化があり、全部で七人いた当時のスタッフはみんな退職して、現在はまったく別の職員がいます。

残念ではありますが、ニッセやネッタン、ヤンネなど、すでに亡くなってしまったメンバーも数人いますし、スタッフのビルギッタも相当前に他界して、現在でも残っているのはアンダッシュやペーテルなどほんの数人のメンバーだけで、デイセンターの利用者もすっかり変わってしまいました。

スタジオや録音スタジオも改造したとはいえまだ残っていますが、隣接していた企業の空き部屋もコミューンが引き継いでデイセンターに組み入れたので、場所も随分と広くなりました。

音楽の時間はそれなりに続けているようですが、外部での演奏活動はまったくないということです。

演奏活動というものは、デイセンターの運営とは違った要素があり、僕が退職した時点で、それを継続することが出来なかったようです。
そのため、僕が退職すると、ヤンネもアンダッシュも練習することさえ止めてしまったらしいのですが、それは本当に残念に思っています。

そして、音楽というものはその時その時の心や感情の交換ですから、絵画や文学のように、後からも鑑賞できるものでもなく、CDやビデオなどに残されたものを辿るしか出来ないという性質なので、それもまた残念なことです。

しかし、現状や環境は変わったかもしれませんが、今までEKOが歩んだ足跡は辿ることが出来るし、苦労や感動の体験は、当時のメンバーやスタッフにとっても、それぞれ歩んでいく上で、これからも心の中に残っているのだろうと思います。

今でも、特にアンダッシュは近くに住んでいることもあって、会う時にはいつのように話をしていますし、昔話にも花が咲きます。

みんな、それぞれ「君と僕」という関係であったし、それはいつまでも変わることはありません。

音楽という繋がりがそうさせているのかもしれないし、世界を一緒に回ったという体験からかもしれないし、あるいは10年以上も一緒に行動した年輪なのかもしれません。

とにかく、僕らは音楽をすることでひとつになった、かけがいのない「仲間」でした。

日本公演ツアー(その1)

⚫︎日本公演のきっかけ

「偶然が偶然を生む」とはよく言ったものですが、1990年の秋に、僕らがモスクワに行った時のビデオがスウェーデンのテレビ局で放映されました。

ちょうどその日に、スウェーデンの福祉を取材に長野市からストックホルムを訪れていたジャーナリストの内山二郎氏が、あるデイセンターでテレビを見ていたというのです。

地元の長野市でも障害者との関わりが深い内山氏は、ダウン症の女性がロックバンドで演奏しているテレビ番組を興味深く見入っていました。
と、突然、画面に日本人が映ってるいるのを発見したそうです。

「あれは、日本人じゃないの?」と隣にいた人に聞くと、そうだという答え。
「彼とコンタクトを取りたいけど、誰だかわかりますか?」
そうして貰った電話番号にすぐ電話をしたそうです。
電話に出たのは、僕でした。

「今すぐに会いたいけど、どこに行けば良いですか?」という彼の問いに僕が道順を教えると、しばらくしてから彼がエクトルプ・デイセンターにやって来ました。

その後、彼は何日かストックホルムに滞在して、デイセンターでの取材をしたり僕ともいろいろ話をして、EKOのモスクワ公演のビデオを持って日本に帰国しました。

彼は、日本に帰ると、奈良市にある「わたぼうしコンサート」で有名な財団法人「たんぽぽの家」を訪れ、EKOの様子を話しビデオを見せて、日本に招聘する可能性について尋ねたということです。

1992年といえば、「国連障害者年10年」の最終年にあたり、日本ではその年に障害者の文化ということで大々的なイベントが計画されていました。

そして、「たんぽぽの家」の理事長である播磨靖夫氏も、そのイベントの企画に大きな役割を持っていました。

長い話を短くすると、播磨氏はEKOをそのイベントに招聘すると同時に、全国を縦断してツアーを行う計画を立て、ちょうど僕がその前年に日本の障害者関係の全国大会に通訳として来日していた時に話し合いを重ね、翌92年にその企画を実施することに決めたのです。

1992年の日本縦断公演は、大阪の近鉄劇場での公演を皮切りに、大阪での「とっておきの芸術祭」、徳山市(現在の周南市)、佐賀市、宮崎市、富士市、長野市、東京都の杉並区と北区、新潟市、福山市、札幌市と、都合12ヶ所での公演を、都合5週間の滞在で行いました。

公演の他にも訪問した地域があるので、2日〜3日ごとに何処かへ移動していたことになります。

⚫︎「国連障害者年10年」

ところで「国連障害者年10年」ということですが、その年のイベントはこの企画に限らず、福祉の世界ではいろいろな行事が催されていました。

しかし、スウェーデンから来た僕らはこの国連の動きというものを、まったくと言っていいほど知らなかったのです。

国連というからにはスウェーデンでも知られていいはずだし、特に国連の動きには力を入れているはずのスウェーデンでは、何かの情報があって然るべきなのですが、僕らの誰一人としてそれを知っている者はいませんでした。

この年が明けると、この「国連障害者年10年」の続きとして、やはり国連の中で「アジア太平洋障害者年10年」というものが採決されたのですが、このニュースは一度スウェーデンの新聞にも載り、ヨーロッパでもこのような動きは必要ではないかという論評がついていたのを読みましたが、それ以上のことはなかったようです。

あとで調べてみると、確かに社会省あたりでは、それに関する国連への調査や報告などはしていたようですが、コミューンレベルの行政や現場ではほとんど知られてないということもわかりました。

スウェーデンでは伝統的に国連を重視していて、国連の福祉や障害者に関する分野ではむしろ推進役ともなっているので、改めて社会的に取り上げることでもなかったのかもしれません。

それに対して、日本では福祉の運動として、現場レベルで推し進めようとする動きがあったのでしょう。

ここで福祉の動きについて述べるつもりはありませんが、EKOの全国ツアーが行われた背景としてそのような動きがあって、イベントに対する期待も、そんな意味で大きかったのです。

⚫︎オターキがいっぱいいる…そして荷物は?

1992年3月、僕らは成田空港に降り立ちました。

念入りに準備をして荷造りした楽器や販売用のグッズ、それに衣装など大量のパッキングの検査も、スウェーデン大使館から空港にすでに連絡が入っていたせいか予想外に早く済んで、僕らはスムーズに税関の外に出ました。

すると、海外公演はこれが最初ではなく外国というものはそれほど珍しくはないはずなのに、どういうわけか、みんなキョロキョロしているのに気がついたのです。

どこかの団体が歩いているのを見かけると、数人のメンバーやスタッフが立ち止まってその団体の様子を見ているのにも気がつきました。

主催者側からも人が迎えに来て僕らを乗せるバスに案内しているのですが、何となくみんなの動きが遅い。

そのうちに、グンが「見てごらん、オターキがいっぱいいる」と僕に声をかけました。
それに合わせるように、スタッフのビルギッタやギュードルンドまでが「ほんとだ、オターキがいっぱいいる」と相槌を打ちました。

僕の名前をスウェーデン風に発音すると、「オターキ」になるのですが、一体、僕がいっぱいいるというのはどういう意味かと聞くと、空港にいる人の多くは僕と同じに見えるというのです。

「今まで、日本人には何人も会っているじゃない。みんなそれぞれ違うのは分かってるんじゃないの?」と言うと、スウェーデンで日本人に会うとそれぞれ違って見えるけど、これほど多くの日本人を一度に見ると、区別がつかないでみんな同じように見えるというのです。

そういえば、僕がスウェーデンに初めて来た時に、スウェーデン語とフィンランド語を聞いても区別がつかず、人もみんな同じように見えたことを思い出しました。

やがてバスに乗る段になると、迎えに来ていた主催者側の人たちが、僕らの荷物を別の車両に積み込んで、僕らは手ぶらで大型バスに乗り込みました。

高速道路を走りながらしばらくすると、ヤンネもアンダッシュもしきりに後続しているはずの荷物を積んだ車を気にしています。
特にボッセは、何回も、何回もスーツケースはどこにあるかと尋ねました。

「他の車に積んである」と説明しても、もうその車は先に言ってしまったのか、姿も見えません。
しばらくすると、アンダッシュまでが「荷物は?」と、肩をすぼめて困ったという顔をして聞くようになりました。

今までのツアーでは、こんなに手際よく荷物に配慮してもらったことはなかったので、僕らスタッフにとっては非常に有難いことでしたが、メンバーにしてみると、1ヶ月以上も続く旅の初日から、手元にスーツケースがないというのは心細かったのです。

ホテルに着くと、ロビーの床にはすでに荷物が集められていて、僕らの到着するのを待っていました。
それを見届けると、メンバーもようやく納得したらしい。

「ほら、ちゃんと荷物はあるじゃない」とアンダッシュに声をかけると、アンダッシュはニッコリ笑ってから僕に抱きつきて、長い間離れようとはしませんでした。

ホテルでは、係りの人がチェックインした僕らの荷物をそれぞれの部屋まで運んでくれるということでした。
これも、「有難い」とスタッフたちは喜んだのですが、ふと見ると、ボッセがホテルの従業員と荷物の取り合いをやっています。

ボッセにしてみれば、空港からホテルに着くまで、ずっと心配でしょうがなかった荷物をやっとの事で見つけたわけです。
「また取られてなるものか!」とでもいうような顔をして荷物を見張り、係員を睨みつけていました。

初回の日本公演は5週間という長い期間でしたし、また日本での受け入れ先は実に細かい準備をしていたので、それから先も荷物が僕らとは別に移動することも多くありました。

日本に着いてから1週間くらいは、移動のたびに心配そうなメンバーには、わざと「あれっ、荷物はどこにあるの?」と、冗談のように聞いたものですが、そのうちに慣れてしまったようでした。

滞在する先々では、宿泊先でボランテイアの人が荷物を運ぶのを手伝うという場面も多かったのですが、それ以来ボランティアの人には、荷物はなるべく本人に持たせて欲しいとお願いするようになりました。

⚫︎マイクが倒れる!

さて、1992年から96年までの日本全国ツアーでは30を超える都市で公演をしましたが、各地ではそれぞれの地域で公演の実行委員会を立ち上げるという形で行われました。

会場は大きな会館やホールでしたが、各地の公演実行委員会の努力が実を結んだこともあって、どの会場もほとんど満席という熱気あふれる公演となりました。

演奏が始まると、会場からはすぐに反応がありました。
曲に合わせての手拍子はもちろんのこと、座席から立ち上がって踊り出す人もいました。

どこの会場でも障害を持つ人が大勢の観客の中にいましたが、障害を持つ人は特に自然体で反応し、演奏も半ばになると舞台に登って踊り出す人も出てきました。

フィナーレが近づく頃には、時には100人近い人が舞台に上がってきて、文字通り舞台と観客席が一体となって会場を揺るがしたものです。

公演には、次の予定地から様子をみに来ることもあって、この舞台に上がるということが「あそこの公演は乗っていた」という前評判になり、次の公演地では前回よりも多くの人が舞台に上がってくるという話も聞きましたが、実際にどうだったのかは知りません。

しかし、公演の回を重ねるごとに舞台に上がる観客の数は、だんだん多くなっていったようでした。
中には、演奏が始まって間もなくすると、観客が上がるということもあったほどです。
主催者のことを考えると、それだけ公演が盛況だったということになるし、良かったのかもしれません。

実際、舞台でみんなと「パフォーマンス」することは、気分の良いものでした。
それまでのEKOの公演では、海外も含めて、初めての体験でした。

ところが、メンバーの中には、それを嫌がる者もいたのです。

特に、舞台前面に立っていたグンやスッシーそれにネッタンは、人が近くに来るたびに嫌な顔をして、時には側まで寄って来た人に背を向けることもありました。

ボッセも、誰かが近くに来ると途端にナーバスな表情を見せました。

彼らにしてみると、舞台から観客に向かってパフォーマンスしているのは自分である、ということに誇りを持っていたのです。

言い換えれば、彼らはスターであって、観客というものは自分の晴れやかな姿を見に来て、自分に合わせて熱狂する人たちであったのでしょう。
大勢が舞台に上がって、舞台から自分の姿が見えなくなってしまうことには不満があったようでした。

ある時、そんな場面で舞台が騒然としているときに、観客がダンスの前にあったマイクで歌おうとしました。
そこで慌てたグンとマイクの取り合いになり、マイクのスタンドが倒れそうになりました。

「マイクが倒れる!」とグンは叫んで、マイクスタンドを両手で掴みました。

グンの声は演奏の大音響でかき消されてしまいそうでしたが、その叫び声はモニターからも聞こえてきたほどでした。

その頃には、観客が舞台に上がるということについてメンバーたちとも話をしていたのですが、スタッフもメンバーに公演の意味などを言って説明をし、ニッセやヨーランなどは納得していました。
でも、それが許せないメンバーもいたわけです。

その後、公演のフィナーレの場面で舞台が観客でいっぱいになり、そのうちに観客の誰かがドラムセットに当たって、ドラムのシンバルのスタンドが倒れるという出来事がありました。

それで、その後の公演では主催者側にお願いし、舞台の前で踊るだけにして、上には登らないように対応してもらいました。

それ以来舞台に観客が上がるということはなくなりましたが、ある場所で舞台の前にオーケストラピットがあり、その上の蓋の部分で100人以上が踊り出すということがありました。

オーケストラピットの下は、空洞です。

その上で観客がロックを踊るということは想定されていなかったのですが、それが100人を超す人数でしたので、会場の係員も慌てて主催者に止めるように言ったらしいです。

しかし、最高潮で進んでいるショーの最中ではどうしようもなく、また僕らもそんなことはまったく知らなかったので、そのまま終わりまで続けたのですが、後で考えると冷や汗ものでした。

⚫︎和太鼓、どうやって教えたの?

日本公演では、何回かの例外は除いて、各地でそれぞれ地元のグループと共演しました。

もちろん、それらの多くは障害を持つ人だけのグループであるとか、あるいはEKOと同じように、障害を持つ人が一緒に参加しているグループです。

92年の最初のツアーでは、それらのグループの多くは和太鼓のグループでした。

僕自身、和太鼓を見たのは、盆踊りの太鼓を別にすれば、もしかしたら初めてだったかもしれませんし、EKOのメンバーやスタッフにすれば当然初めて体験するものです。

彼らが最初に和太鼓を聞いた時は、その音の凄さや調和がとれた姿、またそのリズムの豊かさに、文字通り圧倒されていました。

EKOのパーカションを担当していて、ことリズムには非凡な才能を持つボッセなどは、和太鼓が鳴り出した途端、「うわ〜、凄い!」と驚嘆の声を上げたほどです。

僕らスタッフ全員も舞台の袖で見ていましたが、和太鼓の音に魅せられたと同時に、「あれって、どうやって教えたんだろう?」とお互いに顔を見合わせながら不思議に思ったことがありました。

和太鼓の演奏では、リズムの流れや演奏の動作が実に見事に統制されていて、文字通り一糸乱れずという感じで、数人あるいは全員が同じリズムを叩き、同じような仕草をしていました。
おそらく振り付けをしたのでしょうが、僕らにはそういう発想はなかったのです。

それは、やって出来るとか出来ないという性質のものではなく、スウェーデンでは障害を持つ人に他人と同じことをするように教えたり、あるいはそうするように仕向けるということは、まずほとんど考えられないのです。

障害を持つ人は、それぞれが自分の条件を持つわけで、その異なる条件をそれぞれが持ちながら、周りとの協調が可能になるようにするというのがスウェーデン的な発想です。

つまり、特に知的な障害を持つ人の場合は、周りと同じことをするのが苦手な状況を持つために、自分なりの表現で自己を主張し、自己意識を持つことで周りと協調出来るように僕らもサポートしているわけです。

日本で見たものは、知的障害者が周りと同じことをするということの中で、自己を表現しているようにも感じました。

これは、どちらが良いかという比較論ではありません。

それはおそらく、周りの人の障害者に対する姿勢や、期待しているものの違いがあるであろうし、それはまた文化や環境の違いで、それぞれ違って当たり前のことですから、どちらが良いとは言えない性質のものです。

そう考えた上で、日本で見たものは、「周りに、障害者を適応させる」ことを目指すリハビリテーションの姿勢であり、スウェーデンの場合は「障害者が適応するように、周りを合わせる」という、ハビリテーションの姿勢という違いではないかと思いました。

このことは、僕らが全国を回り、施設などを訪問する時など、随所で体験したものです。

交流の場で、いろいろな理由でお辞儀の出来ない人の後ろに職員が立ち、職員が体を曲げて前に立つ障害者にお辞儀をさせている姿や、食事の時に「行儀良く食べる」ことを教えている様子など、スウェーデンではあまり見かけない風景もよく目に入りました。

その度に、スタッフはその違いを僕に聞きましたが、リハビリとハビリの違いということで、みんなも納得したようです。

何回も言うようですが、これはどちらが良いかということを言っているわけではありません。

考え方というものは、いろいろあって然るべきです。

次は、「日本公演ツアー(その2)」に続きます…