そして、海外へ

⚫︎「ネクスト・ストップ・モスクワ」への参加

1989年といえば、ロシアがまだソ連と呼ばれていた終わりの頃で、ゴルバチョフの「ペレストロイカ」旋風が起きていた頃です。

この頃は、旧ソ連の内部で表現の自由を求めていろいろな動きがありましたが、スカンジナビアの若者の間で、これら旧ソ連の若者たちと自由に交流しようと言う運動が起きました。

若者たちはその中で「ネクスト・ストップ・モスクワ」というイベントを立ち上げ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーのスカンジナビア諸国から5000人の若者がモスクワに行き、現地の若者たちと文化交流を行おうというものでした。

「ネクスト・ストップ・モスクワ」というのは、バスなどでいう「次の停車は、モスクワです」という意味です。

つまり、スカンジナビアの若者たちが、バスに乗る感覚でモスクワに集まり交流し、そしてモスクワの次の停留場は、また改めて決めようという企画でした。

その若者たちの中に、エクトルプ・デイセンターの職員をしていたカメラマン志望の女性がいて、ある日、EKOもそのイベントに参加できないだろうかと話を持ちかけてきたのです。

「ソ連では、まだ市民が自由にものを表現する機会が少ない。そこで知的障害者のグループであるEKOがモスクワに行って、大勢のモスクワ市民に、障害者が生き生きとステージで演奏する姿を見せてやりたい」というわけです。

もちろん、僕らもその話に飛びつきました。

モスクワに行って、障害を持つメンバーが自由にロックを演奏するというのも、正に「ロックン・ロール」ではないか…。

旅費や滞在費は助成金で補うということで、まあいろいろな苦労はしましたが、社会省に頼み込んだり、とにかく考えられるすべての手段を駆使して、とにかく参加のメドがつきました。

助成金を集める過程で、このプロジェクトを記録するという話になり、テレビチームも同行して密着取材もすることになりました。

そして、また大型バスを借り切って出発したのです。

受け入れ側では、宿泊するホテルのレストランでの演奏も予定していました。
それで、着いてから二日目、僕らは結構格調高い、ある大きなホテルのレストランのダンス場に機材を持ち込み、ろくに音響チェックもせずに、いきなり演奏を始めました。

僕らの演奏の前には、ロシアの楽団がポピュラー音楽やロシア民謡などを演奏していましたが、僕らが機材を持ち込んで仕込みをしている間中、何が起こるのかというような表情で興味深げに観察をしていました。

お客も、おそらく障害者というのは今まで見たことがないというような表情で、これも興味深げに見たり、あるいは見ない振りをしていました。

そして演奏が始まると、ロシアの楽団もレストランのお客も最初の二曲くらいは目を丸くして見ていましたが、次第に口元に微笑みが浮かんできて、曲が進むにつれて手拍子をするようになり、演奏の中頃にはダンスフロアに出てきてダンスを始めたのです。
ダンスにも次第に熱が入り、みんな汗を流して踊っていました。
演奏が終わると、「アンコール」の声が鳴り止みませんでした。

ロシアの楽団のギター弾きは、僕らのギターを珍しそうに触り、僕が使っていたピックをプレゼントすると、嬉しそうに、何回も「スパシーボ(有難う)」を繰り返しました。

次の公演は市内の養護学校ということでしたが、行ってみると、一般的に僕らが知っている養護学校というのとは、まったく様子が違っていました。
そこは寄宿舎のある学校で、寄宿舎の建物には50人くらいの生徒が二列に並んで寝るように、ベッドがきれいに整頓されていました。

演奏が予定されていた体育館のような場所で演奏が始まる頃には、200人くらいの生徒がすでに集まっていました。
しかし、どこを見ても、僕らが普段接している知的障害をもつ子供の姿は見えなかったのです。

中には肢体不自由児という生徒もいましたが、ほとんどの生徒は、一見する限りでは何の機能障害を持っているのか、見分けがつかないのです。
もしかすると、親のない子どもであったり、あるいは何かの学習障害という児童たちかもしれないと思いました。

演奏中、それらの生徒は実に行儀よく席に座って、曲に合わせて手拍子を打ち、曲が終わるときちんと拍手もしました。

でも、スウェーデンの学校で見られるような素直な反応は、最後まで見られませんでした。

それにしても、養護学校というのに、ダウン症や自閉症の子どもたちはどこにいるのだろうと、僕らはそこから出てから話したものです。

宿泊ホテルから少し離れた公園を散歩している時でしたが、メンバーと歩いていると、近くを散歩していた若者が数人こちらを見ながら、小声で何かを話していました。

もちろんロシア語だから何を話していたのかは分かりませんが「Idiot(白痴)」という言葉は、僕にも聞き取れました。

⚫︎エストニアの視覚障害オーケストラ

モスクワでの公演の様子は、ソ連の放送局でも全国にラジオ放送したらしいです。

それと、僕らの受け入れ先だった団体が、当時はソ連に属していたエストニアの文化省に話をしたということで、それから一年後の1990年10月、僕らはエストニアの文化省と放送局から招聘され、全国公演を行いました。

エストニアの首都タリンまでは船で行き、タリン市の高級ホテルに宿泊して、1週間の間、タリン市やいくつかの地方都市を回りました。

エストニアは、言語的にはフィンランド語と同じ系の言葉を話し、また歴史的にもスウェーデンとは関係の深い国です。
モスクワとはまた違った雰囲気で、市民もどちらかというと物静かな感じがしました。

公演は、学校や地方の公民館など公共の施設で行われましたが、地域によって受け入れ方も様々でした。
ある地域では、その地域の障害者団体が受け入れ先で、そこの委員長はその後いくつかの公演にも同行しました。
彼も、また他の障害者団体も、僕らの公演を非常な熱意で迎えてくれて、地域にある障害者が作った工芸品などを展示してある場所にも案内してくれました。

この場合の障害者とは、身体障害をもつ人です。

彼らの話によると、このような演奏会に出かけるということ自体が全く珍しいことで、例えば障害者の団体で集まりがあったとしても、連絡することすら難しいというのです。

話をもっと聞いてみると、電話を持っていない人が多いというのです。
また、仮に近くに電話を持っている人がいて連絡がついたとしても、車椅子で出かけるのは難しいということでした。
タクシーというのもあるにはありますが、とても余暇に何処かへ出かけるためにタクシーを使う余裕はないと言っていました。

電話がないから連絡もつかないので、こうして集まるのも大変なんだ、という言葉に僕は凄く重みを感じて、その委員長が演奏会に何回も参加してくれる度に胸が詰まってしまいました。

知的障害者の施設も訪問しました。
スウェーデンにはもうなくなって久しいタイプの施設で、入所の施設と日中活動をする場がありましたが、日中活動の場はいろいろな訓練の場でした。

ある演奏会では、そこに住む障害児も招待され、演奏が始まると、見学で見た様子とはガラッと変わった喜びの表情を見せていました。

音楽というものにはもちろん接しているのでしょうが、もしかしたら喜びを表現するということとは違う接し方なのかなとも思いました。
同行していた英語を話す音楽の教師が、「うちの障害児があんな表情をするのは、初めて見た」と言うのです。

そういえば、ソ連の障害者教育理論というものが、世界的にも評価が高いということを思い出しました。

タリン市内で、ある視覚障害者のオーケストラと合同の演奏会をした時のことです。

演奏の場所は福祉関係のセンター風の建物で、その中にある大きな会場で演奏することになり、僕らは用意された機材や楽器の仕込みをして演奏を始めました。

視覚障害者楽団のメンバーは壁際に用意された椅子に座って、僕らのロック演奏をジーっと聞いていました。
手拍子もなかったし、曲が終わってからも別に拍手をするわけでもありません。
視覚に障害があるためか、ある人は耳を傾けるように、またある人は俯いたまま、何かを探るように黙って聞いていました。

やがて彼らの番になり、演奏者は係の人が準備したそれぞれの席につきました。
各々自分なりの格好をして、そのまま何かを待っている様子でした。

やがて、軍服かと思われるようないかつい格好をして帽子までかぶった男性が前に出てきて、指揮棒を鳴らすと演奏が始まりました。
一般的な交響楽団のような編成で、曲も交響曲やロシア民謡などでしたが、演奏の途中でふと気がついたのですが…

交響楽団に指揮者がいるのは何も不思議ではないのですが、楽団全員視覚障害者です。
みんなそれぞれの姿勢で音を聞きながら演奏しているのですが、誰も指揮者の指揮棒を見ていないのです。

演奏は確かなもので、僕らも久しぶりに交響楽団の演奏を聞いたわけですが、演奏が終わると、指揮者は軍隊長の帽子を取り、タクトを小脇に挟んで礼儀正しくお辞儀をして、サッと下がっていきました。

残りの楽団員は、しばらく席に座ったままでしたが、指揮者が退場したのを察したのか、一人ずつ自分のテンポで舞台から下りていきました。

視覚障害者の交響楽団で、指揮者はどうやって指揮棒で演奏をまとめていったのか、一度聞いてみたいと思いました。

⚫︎トリニダード・トバゴの「スペシャル・チャイルド」

1991年にEKOがエクトルプ・デイセンターから独立して、独自の「EKOデイセンター」になり、新しい拠点に引っ越すと間もなく、ストックホルム市にある音楽博物館の館長から連絡がありました。
カリブ海にあるトリニダード・トバゴに公演に行けないかという問い合わせです。

その館長は、本人も軽い脳性麻痺の症状を持つ人ですが、カリブ海諸国の音楽、とりわけトリニダードのカリプソのリズムの権威です。
今まで何回となくトリニダードを訪問し、スティールパン(ドラム缶を利用した、トリニダード独特の楽器)のバンドをスウェーデンに招聘もしていました。

話によると、あちらの政府関係の奥さんが養護学校設立のためにチャリティコンサートを開くので、EKOを招聘したいと言っているということでした。

調べると、赤道直下に位置するトリニダードとトバゴという二つの島からなる国で、気候は年間を通して気温が30度ということで、北欧からみると常夏の国、白い浜辺に椰子の木、それにカーニバル…。

すぐに受託の返事をしました。

飛行機はストックホルム郊外のあるランダ空港から直行便が出ていますが、人数の関係で、グループを、直行便とロンドン経由、それにマイアミからバハマ経由という三つのグループに分けて、最終的にトリニダードで落ち合うことにしました。

僕のグループは直行便で到着しましたが、飛行場に着くとすぐ、VIPの待合室に通されました。
他のグループは次の日に到着するので、とりあえず、夜の暗闇の中、首都ポート・オブ・スペインの最高級ホテルに向かいました。

飛行場から市内までは迎えの車で行ったのですが、見ると沿道のいたるところに、家の屋根や庭の木、果ては芝生にまで灯りが燈っていました。
聞くと、その日はヒンズー教の祭日だということです。

この国の人全部がヒンズー教とも考えられないのでさらに聞くと、案内の人が、「この国は、みんなどこかの血を引いているから、何の宗教だってお祭りをするんだ」と言っていました。

昔、イギリス、スペイン、フランスなどの強国がほとんど同時にこの島に来て、アフリカやインドなどの植民地から人を連れてきたそうで、とにかくいろんな人種がいます。

出会う人の多くは、その圧倒的多数が黒人系ですが、アフリカ系、インド系、アラブ系、白人系、中国系と様々な人種が混血されているようで、そこでは自分が何系であるかなどということを考えることさえ無意味であるような気もしました。

さて、僕たちを招聘したのは、元大臣の経歴を持つ白人系の野党党首の奥さんでした。
孫にダウン症の娘がいます。

国中にいろんな人種がいるので、他の人と違って見えるということでは特別人の目を引きません。
その孫娘も、近所の人からはとても可愛がられている印象を受けました。

しかし、ダウン症ともなればそれに適した学校が必要ですが、いわゆる養護学校というものは数が少なかったのです。
そのため、チャリティショーを開いて資金を集め、新しい養護学校を開くというのが今回のイベントの趣旨でした。

ちなみに、養護学校のことを、その奥さんは「スペシャル・チャイルド・スクール」と呼んでいました。
知的障害でも障害児でもない、”A Special Child” です。

公演会場は、8000人を収容する市立競技場でした。
僕らも、今までいろんなところで演奏しましたが、8000人というのは、想像を超える数字でした。

実際には、その競技場の中央にステージがあり、競技場の観客席の半分を使うということで当日は3500人集まったということですが、とにかく大きなコンサートであったことには変わりありません。

おまけに、EKOの他にもトリニダードを代表するポップバンドや、高校のスティールパン演奏全国大会で優勝したグループなども競演するということで、前評判も非常に高いものでした。

開演の時刻が近づくと、会場はほとんど満席の状態になり、カーニバルの衣装を着た集団もあちこちにいました。

トリニダードは、ブラジルと並んで年に一度のカーニバルがあるので有名で、僕らが滞在中は、スティールパン・バンドの練習の音が、町中どこからでも聞こえてきたものです。

大きな野外ステージの前には、貴賓席が用意されていました。
何と、政治家や偉い人たちと一緒に、僕らのためにも用意されたものでした。

突然、スウェーデンの国家がテープで流され、参加者全員が起立すると、僕らが持っていったスウェーデン国旗が掲揚されました。
僕らも、もちろん起立して、スウェーデンの青地に黄色の十字架が美しい国旗を仰ぎ見ました。

「オリンピックやスポーツの世界選手権で表彰台に上る選手は、国旗掲揚、国家演奏をこんな気分で味わうんだろうか?」と、ふと思いました。
僕らのために、スウェーデンの国歌が流され国旗が掲揚されて、観客が敬意を評している…。

ふと隣を見ると、メンバーもスタッフも神妙な顔をして国旗を眺め、国歌を歌っていました。
「僕らのために…」またそう考えた時、目頭が熱くなりました。

3500人の観客を前にした野外ステージにスポットライトが当たると、ステージから見る観客席は真っ暗で、観客の反応も見えにくいものです。

でも、ちょうどその日はニッセの誕生日でもあったので、僕が音頭をとって「ハッピー・バースデイ」と即興で歌い出すと、3500人の大合唱が後に続きました。

それで、観客席にも僕らのメッセージが届いているのだと確信できました。

トリニダード滞在中は、政府観光局から特別の案内人が差し向けられていて、公演前には島中を案内してくれていました。

公演が終わってホテルについてきたその案内人は、「正直言って、初めのうちは、一体このグループに何ができるのかと思っていたけど、あの公演を見て、みんなプロだということが分かった。今度プライベートでくることがあったら、いつでも連絡してほしい」と言って、改めて握手を求めてきました。

公演が成功だった証を、ここで貰ったと思いました。

次は、「日本公演ツアー(その1)」に続きます…

演奏の練習!

⚫︎セラピーとしてのセッションとプロとしての練習

EKOの練習は、基本的には、デイセンターで音楽セラピーとして行われたセッションの延長です。

しかし、デイセンターでのセッションは、「一緒に音楽を楽しむ」ことがメインであり、楽器演奏の上達や、あるいは曲を上手にまとめていくことを狙いとするものではありません。
なので、演奏の上達を目的とする練習とは、性格が違います。

セラピーとしてセッションをしている時は、それぞれのメンバーにこちら側が合わせていこうとする姿勢ですから、セッションの展開はリードするにしても、メンバーのあり方や演奏の仕方について、こちらからいろいろ要求することはありません。

ところが、観客を相手にするとなると、状況が違ってきます。

演奏も自分勝手にするわけにもいかないし、ステージで立つ場所や向きなども含めて、いろいろ形を作り上げていかなければなりません。
つまり、曲の練習をしなければいけなくなり、そうすると、リードする側としてはいろいろ要求することが出てくるわけです。

今まで自由にやってきたものが、練習ということで好きなように出来なくなることは、メンバーとの関係とか「やる気」を考えると、慎重にやらなければなりません。
「音楽は楽しいもの」と感じている部分は、何よりも大事にしなければいけないのです。

そこで、セッションから練習への姿勢の転換は、形としてはセッションと同じように続ける中で、「観客の前で演奏する」ことを練習するという、違う性質のものを同時に進める方法で行いました。

つまり、今まで通りのセッションのように、曲は途中で止めることなく演奏をして、指示をする場合は、リーダーである僕が今までのように主導権を取り、何かの変化を求める場合には、「悪いものを直すのではなく、良いものを伸ばす」姿勢で、セッションの手法を使っていく方法です。

そのため、何か指示する場合には、「ほら、今演奏してるから、誰かが見てるよ」などと、人前で演奏することが自分のやり方を変えるモチベーションになるように促して行きました。

そしてまた、発表会でお披露目するように「お行儀良く」ということではなく、メンバーひとりひとりの個性が自然な形で出るように、その人のありのままの姿は大事にして、曲の出来というものや行動に対しては、その場で臨機応変に対応出来る方向で練習を行っていきました。

ボッセは、元々エクトルプ・デイセンターの利用者ではなく、他のデイセンターに通っていました。

彼とは市内の余暇のサークルで一緒だったのですが、そのリズム感は抜群でした。
しかし、僕がその後そのサークルを止めてからは音楽をする場がなくなったというので、EKOの練習や演奏の時には参加出来るようにいろいろ調整をして、やがて正式のメンバーになりました。

彼のリズム感は素晴らしく、トムトムを担当するとすぐそれに没頭するようになりましたが、とにかく、その音は他の音を消してしまうほど強かったのです。
隣にいるメンバーは自分の音が聞こえなくなるので、ボッセに食ってかかることもありました。

観客の前では、そんな光景はできるだけ避けたいものです。

そこで、練習でボッセのトムトムの音が強すぎる時には、メンバー全員に「ボッセの音、凄いね。みんなボッセのように音を強く出してみようか」などと言って、全員で耳が割れるような音を出すようにしました。

ボッセは褒められたと思ったらしく、ますます強く叩くし、他のメンバーは「負けるか!」という表情で、ボッセの音よりも強く楽器を鳴らそうと、それはまた凄い音になりました。

一通りそれが終わると、「今のは、凄かった。流石だな〜。じゃあ、今度は反対の小さい音は出せるかな?」と言いながらボッセを見ると、案の定、「そんなこと、出来ないわけがない」という顔をして頷きました。

「じゃあ、やってみよう!」と言って僕がギターを聞こえないほどの小さい音で弾き始めると、ボッセもみんなも、今度は負けないように、思い切り小さな音を出しました。
そして、ボッセに向かって手のひらを下に向けて上げ下げしながら、「いいぞ、ボッセ。もっと小さく…、そうだ…!」などと言いながら、ボッセが頷くのを待ちました。

ボッセは僕を見ながら、ほとんど聞こえないほどの音を出しました。

ボッセが僕の手のサインの意味を理解すると、後はそれほど問題がありません。
彼がトムトムを強く叩きすぎると、僕はボッセにそのサインをするだけで、トムトムの音が弱くなるようになりましたし、「ここでソロが欲しい」という時には、その手を挙げるとボッセもそれに連れて音を強くするなど、コントロール出来るようになったわけです。

もし、それをやらずにみんなの前で「音が大きすぎるから、小さく叩いて」などとボッセに指示をしたら、繊細すぎるほどの彼は、きっと萎縮して打ちのめされていたことでしょう。

⚫︎全体練習と部分練習

音楽セッションにあったグループ・ダイナミックスは、EKOが練習を続けていく上で大切なものでした。

そこでは「間違い」というものはなく、それぞれが何をやってもグループの中に溶け込むことができ何でも許されるからこそ、自分を思う存分発揮できる場にもなり得ました。

しかし、バンドとなってからの練習が多くなると、やりたいことばかりではなくなるし、自分のやり方を周りに合わせなければならないことも増えてきます。
また、そればかりが続くと、実際の演奏の場で思い思いの表現が出難くなってしまいます。

EKOが観客を前にして演奏する時は、メンバーたちが、一緒に演奏しているリーダーたちが驚くほどの、自発的でしかも自然なパフォーマンスを演じるというのがEKOの持ち味です。
そのため、練習を全体練習と部分練習という二つのやり方に分けて行うようにしました。

全体練習とは、全員が稽古場のステージに立って演奏を通して行い、部分練習は、その時の状況によって、一人ずつあるいは数人で、歌の部分や演奏の部分、時には動作などの練習を行うということです。

部分練習では、「この方がより良い」と思われることを何回も繰り返すことがありましたが、全体練習では、セッションの時のようにそれぞれの自発的な動きに任せ、同時にリーダーたちも、メンバーそれぞれの癖や行動に即興的に対応出来るように、実際の舞台のように進行していきました。

メンバーの、ペーテルの例を話したいと思います。

彼は、作業も積極的に行い、みんなが嫌がるような重い機材を自ら進んで運ぶなど、活動には非常に真面目な姿勢を持っていました。

舞台ではカバサという打楽器を担当し、頃合いを見計らっては舞台の前方に進んで、観客を引き込むこともよくありました。

ダンスも好きで、リズム感も決して悪くはなかったし、速いテンポの曲では、何も問題はありませんでした。

ところが、ブルースやバラードの緩いテンポの曲になると、テンポを落とすことをせずに、むしろロックなどのテンポよりも、もっと速く弾きだすのです。

どうも、彼のリズム感の問題ではなく、遅いテンポになると自分の動きがコントロール出来なくなって、それがまた不安に感じられて余計にテンポが速くなるようでした。

一度、海外公演でホテルに泊まった時に彼の隣の部屋にいたのですが、その時彼が部屋の中で大声を出して歌っているのが聞こえました。

ラジオから流れるバラードの曲を、正確な音程とリズムで歌っていたのです。

一人でいる時は全く不安がないのですが、グループで練習をしたり観客がいる時には、見られている自分を感じて不安になるに違いありません。

そこで、デイセンターに戻ってから彼を部分練習に誘い、彼とダンスをすることにして、練習とは言わずに「今日は何もないから、音楽でも聞いて踊ろうか?」と誘いました。

スタジオ担当で、またEKOではドラムを受け持っている音楽リーダーのニクラスに頼んで、速いテンポの曲とゆっくりしたブルースを選んでテープで流してもらい、ペーテルには「いい曲だね〜」と言いながら自分で踊り始めました。

もしかしたら、何かあるのではないかと思っていたに違いないペーテルは、最初は疑わしそうに僕を見ていましたが、そのうちに身体が動いてきました。
音楽がかかると黙っていられなくなるのは、EKOのメンバー全員に共通しているところです。

時間が経っても、僕が練習らしきことは何も言わずに、世間話のようなことを喋りながらただ踊っているので、彼もだんだん安心したようです。

その様子が分かっても、僕は何も言わず、わざと見ぬ振りをして踊りを続けました。
そのうちにゆっくりしたバラードの曲になったので踊りながら彼の様子を見ると、彼も同じテンポで踊っているのが見えました。
動きのテンポは、そのバラードとピッタリと合っていたのです。

それ以来、ステージで何かの理由で彼のテンポが速くなると、僕は演奏をしながら彼と踊るようにしました。

テンポが合う日の彼は機嫌が良くて、ロックのナンバーになるとステージの前方に出て、パフォーマンスを実に堂々とやるのです。

⚫︎曲作り

EKOが演奏する曲は、すべてオリジナル曲です。

もちろん、音楽セッションをしていた頃はセラピー的な曲を使っていましたし、グループを結成した頃は自分たちの出来る曲を演奏したりしたこともありましたが、バンド活動を開始してからは努めてオリジナルの曲だけを演奏するようにしました。

障害を持つ人がステージで何か既成の音楽を演奏すると、往々にして、「上手くできた」とか「間違わずにやっている」という評価をされることがあります。
中には、「障害を持っている割に、上手だ」という人もいます。

僕らは、それが嫌でした。
僕らは、ステージで障害というものを披露しているわけではないのです。

それぞれ違う条件は持っているとしても、舞台の上ではそれぞれが自分の個性を、思い切り表現しているわけです。
ステージの上では、サポートの音楽リーダーも含めて、全員がバンドのメンバーであり、お互いの出来ることを、それぞれ100%出し合っているわけです。
そこには、障害という壁があってはいけません。

既成の曲を演奏すると、聞いている人はすでに曲の展開を知っている場合が多いので、観客の目はどうしても障害のある人に集まってしまいます。

またリーダーという立場にいる人は、なるべく目立たないように控えめになってしまいがちで、結局は障害というものを見せることになってしまいます。

ところが、それがオリジナルの曲であれば、観客の目もグループ全体に集まることになるし、何をどうやろうと、僕ら自身の姿を見せていることになります。
「自分たちのオリジナルを見せる」というのが僕らのポリシーでした。

オリジナルの曲を作るにあたっては、最初の頃はやはり音楽セッションの時のように、僕が作って練習の中で取り上げることが多くありました。
セッションでの音楽の展開はリーダーである僕が勧めてきたので、そうすることが自然だったこともあります。
しかし、活動を勧めていくうちに、他のリーダーたちの中にも曲を作る人が出てきて、それも同じようにレパートリーとなっていきました。

EKOのバンドメンバーは、結成の頃から多少の入れ替わりがあって、バンドの形が定まってきた頃には、利用者であるメンバーが12人、職員や学習連盟所属の音楽リーダーが、僕を含めて4人、この他にサポートの職員が3名いて、総勢19人がEKOのメンバーでした。
音楽リーダーやサポートの職員は「スタッフ」と呼ばれていました。

他の音楽のリーダーが作る曲は、作る人の音楽的なバックグラウンドも違うので、スタイルはロック音楽といってもそれぞれ個性があり、レパートリーに幅が出るようになっていきました。

僕が曲を作る場合には、曲の構成はすべて分かっているので問題はないし、リーダーたちも即座にフォローするテクニックを持っているので、全体練習で即興的に取り上げてもセッションのようにスムーズにいきました。

しかし、他のリーダーが作る場合は、複数でいろいろ話し合いながら作っていく場合が多かったので、そのような場合は、最初から全体練習で取り上げることはしないで、部分練習の際などにリーダーだけが集まって曲をまとめていくようにしました。

全体練習の場では、議論をしたり曲作りのために同じことを繰り返すことを、出来るだけ避けるようにしたわけです。

障害を持つ人がメンバーのグループで、オリジナルをレパートリーにするということなら、当然メンバー自身の曲ということも考えなければいけないでしょう。
実際、EKOのレパートリーの中には、メンバーたちが取り上げた題材を曲にしたものがいくつもあります。

でも、メンバーが作らなければいけない、ということにこだわったわけではありません。
もちろん、メンバーがメロディーや曲全体を構成していくことは難しかったわけですが、それは障害というものによるのではなく、ちょうど、音楽リーダーの誰もが曲を作ったわけではないのと同じです。

全体練習の時の練習の合間や、作業やツアーの時など、メンバーたちと話をする中から面白そうな題材、なるほどと思うエピソードなどをピックアップして、彼らの言葉や考えが生かされるようにしていきました。

そして、それをまずリーダーたちで曲のイメージを作っていき、部分練習もリーダーだけでやった上で、全体練習の時に全体で演奏してみんなの反応を確かめていきました。
初めからみんなで創り上げるということをしなかったのは、やはり全体練習の時のエネルギーを大事にしたからです。

⚫︎ブルースとハーモニカ

EKOのレパートリーの中では、ブルースを基調にするロックや、ブルースの曲がいくつもあります。

総勢19人のメンバーということは音楽の好みもそれぞれだし、また音楽リーダーのバックグラウンドも違えば年代も違うのですが、みんなに共通しているのはロックであり、またブルースでした。

流行のポップ音楽やディスコ音楽は別にしても、本来ロック音楽やロックン・ロールはやはりブルースが根底にあります。
そして、ブルースといえばハーモニカです。

メンバーのニッセは、歌詞を覚えるのが早いし、スウェーデンの民謡や歌謡曲でみんなが知っている曲はほとんど歌詞を見ないで歌えるくらいなので、もちろんメインの歌手です。

彼と並んでステージの前方には、アン、グン、スッシー、ネッタンがいて歌ったりタンバリンを叩きますが、ブルースの曲になると、ニッセの歌の合間にみんなでハーモニカを吹きました。
よくある、ブルースのパターンです。

録音した音を聞くとよく分かるのですが、そのハーモニカは、実にブルースなのです。
誰かが吹くゆっくりとしたメロディーも聞こえるし、また誰かの深い低音で刻まれるリズムも聞こえます。
そして、ブルース特有の余韻を残して、ニッセの歌やギター演奏に繋がっていきます。

でも、そんなことはどうでも良いことでした。
第一、ハーモニカの吹き方は一度も教えたことがないし、練習もしたことがなかったからです。

ブルースというのは、大概三つのコード進行というのが普通ですが、例えばC調のブルースだと、コード進行はC・F・Gの三つです。

その場合に、F調のハーモニカを吹くと、それがブルースの伴奏であれば、一つのトーンを吹いたり吸ったり、あるいはどういう風に吹こうが、それはブルースにしか聞こえません。
ブルースの調べになっている伴奏の中では、たった一つのトーンだけ出したとしても、ブルースになってしまいます。

つまり、どういう風に吹こうが立派にブルースになるので、あえてハーモニカの吹き方を教えるとか指示する必要はないわけです。

おまけに、音符をなぞったり、間違わないように気をつけながら吹いているよりも、何倍もブルースなのです。

もちろん、吹く方でももっといろいろやってみたいと思えば、より「カッコよく」なるようにアドバイスはできますが、この場合、本人がブルースを吹いていると実感することの方がより大事です。

ブルースの曲が終わった後の彼らの表情からは、いつも満足している余韻が伝わってきていました。

次は、「公演とツアー」に進みます…