相模原殺傷事件に思うこと…

この件に関しては日本のみなさんの方がより詳しくわかっているとは思いますが…、例の相模原殺傷事件のことです。

あの事件を日本のニュースで読んだ時、それはもうショックでした。

スウェーデンで、いわゆる障害者の入所施設が完成期にあったと同時に入所施設の解体が始まった時期から、グループホームへの移行経過やそれ以降のパーソナルアシスタント制導入での自立生活の時期を体験してきた僕としては、それまで入所施設というものの性格からくる弊害なども嫌というほど見てきました。

そして、90年代からは日本の大きな入所施設も訪問する機会があり、スウェーデンとはまた違った形態や障害者の置かれている状況なども目の当たりにしてきました。

入所施設の弊害の中で大きなものには、当然職員による虐待というものがあります。

ニュースになるような虐待事件はもとより、マスコミには出ないような職員による不適当な対応まで含めると、それを大きな意味で虐待と呼ぶならば、おそらく相当数の虐待が日常茶飯事として、どこにでも起きているんだろうとは思います。
スウェーデンだってそうでしたから…。

でも、相模原市で起こったことは、入所者19人が刺殺され、職員を含む26人が重軽症という、今まで考えられもしなかったほどの壮絶な事件でした。

虐待は想像するまでもなく当たり前にあったとしても、19人が刺殺ですよ!

当然、その刺殺者が誰であろうとか、「何故に?」ということが話題となったんですが…、それから1ヶ月ほどして、日本からきた友人が持っていた最新の新聞を読んで、何かいたたまれないような気持ちになりました。

それは同時に、「このままだと、この問題は解決できないだろう!」という、確信にも近い思いでもありました。

事件が起きてから1ヶ月余りは、犯人の人となりやそれまでの行動とか「周りは、なぜ気がつかなかったのか?」とかいう分析ばかり…、それと被害者の名前すら伏された障害者不在の話題とマスコミのニュースでした。

それから3年半たった今、殺人罪などに問われた元職員植松被告に対する裁判の初公判が横浜地裁で開かれました。

そこで植松被告は、起訴内容について「間違いありません」と述べたということです。

加えて、被告人質問では重度障害者を念頭に「意思疎通が取れない人間は安楽死させるべきだ」とか、理由として「社会保障費など多くの問題を引き起こしている」と持論を述べたうえで、その考えは施設で働く中で芽生えたとも言っています。

この事件を巡る一連のニュースや原因を探る動きでは、特に加害者である被告の人間性や施設側の雇用に関することや被告の勤務状態などが話題になりました。

また、被告は事件前に「障害者を抹殺できる許可をください」との手紙を衆院議長公邸に持参し、16年2月に措置入院していたそうで、被告の精神状態も話題になりました。

でも、事件の原因や要因を深く考えると、僕としてはどうしても暗い気持ちにならざるを得ないんです。

一体、彼の考えというのは、彼一人の特出した極端な考えなんだろうか?

彼の行動は許されないとしても、彼の考え方に一定の共感を覚える人は誰もいないと断言できるだろうか?

それは、彼一人の狂気がもたらしたもんなんだろうか、って…。

自身が脳性麻痺による重度身体障碍者である木村英子参院議員は、植松被告の初公判を受けて、ブログで文書を発表して、こう述べています。

記事からの抜粋ですが…

「このような残虐な事件がいつか起こると私は思っていました。なぜなら、私の家族は障がいをもった私をどうやって育てたらいいかわからず、施設にあずけ、幼い私は社会とは切り離された世界の中で虐待が横行する日常を余儀なくされていたからです。(中略)

そんな環境で、職員は少ない人数で何人もの障がい者の介助をベルトコンベアーのように時間内にこなし、過重労働を強いられます。そのような環境の中で、障がい者は、絶望し、希望を失い、顔つきも変わっていく。その障がい者を介助している職員自体も希望を失い、人間性を失っていき、目の前にいる障がい者を、人として見なくなり、虐待の連鎖を繰り返してしまう構造になっていきます。
(中略)

このような環境では、何もできないで人間として生きている価値があるんだろうかと思ってしまう植松被告のような職員が出てきてもおかしくないと思います。」
(参議院議員木村英子オフィシャルサイト『相模原事件発後半にあたり』2020年1月8日から)

そうなんです、これが正に入所施設というものの弊害と実情なんです。

この事件にショックを感じた僕は、その1ヶ月後の新聞の切り抜きを読んで、自分のFacebookに投稿をしました。

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「昨日、日本から人が来た。
久しぶりに、26日付の新聞を読んだ。

1ヶ月前から、この事件についての報道は今も続いているけど…

「しょうがいをもっている」という理由で、人が施設に住んでいるのはおかしいんじゃない?」という話が聞こえてこない。

「施設はどうあるべきか?」とか、
「なぜ周りは気がつかなかったか?」とか…

今日の27日に、TBSテレビで当事者の事件についてのインタビューが放映されたとか…

「しょうがいをもっているというだけ」で、あれほど大きな事件。
自分以外の誰かへの心配りで、名前も公表されない仲間の運命。
そして、多くの仲間はまだそういう「施設」というものに住まわされていること。

たった一人の声かもしれないけど、

他にも、「施設から地域で自立生活」を願う人は大勢いるのは知っているけど…、
そろそろ「そういう声」が多くなって、話から行動に移せないもんだろうか?

だって…、命、無駄にはできないじゃん?」

2016年8月28日、Facebook投稿文より
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僕のFacebookの「友達」には、日本で会った仲間や福祉関係者が大勢います。

そして、その多くは僕とも意気投合し、「やっぱり施設暮らしより自立生活だよね」という点においては共感を共にする仲間だと思っていました。

しかし、反応は意外に少なく、しかも「入所施設はなくした方が良い」とはっきり言う人は皆無に近いものでした。

でも…そもそも入所施設というものがなければ、こんな忌まわしい、しかもこれほど多くの犠牲者が出る事件なんて起こらなかったんじゃないでしょうか?

何で、障害者が入所施設に入らなければいけないんですか?

僕が「入所施設ではなく、地域での自立生活を!」と言う根拠は、「人間は誰でも、施設というものに住むものではない」ということです。

人間は本来、病気や怪我をして病院という施設に住むか、あるいは罪を犯して社会からの隔離をすると決められた刑務所という施設以外は、自分の住処に住むものです。
それが、豪邸であるか貧疎な小屋であるかは問わず、自分の住処です。

入所施設の職員のほとんどは、「ここは自分の住むところではないし、住みたくはない」と思っているはずだと思います。
でも、自分でも住みたくないと思っているところに人が障害を持っているという理由だけで住むのは、おかしくないですか?

障害を持っている人がそこに住むのは、障害者の生活を支援することが理由なら、障害を持っている人が、施設ではなく自分の住処で住むように支援する方法を考えるのが当然じゃないですか?

…と、ここまでは、僕も日本でいろいろ議論してきたことなんですけど…

でも日本には、残念ながら「入所施設がなくならない」と思われる絶対的な根拠があります。

それは、日本では今でも、「家庭環境に恵まれない児童は、児童養護施設に入る」ことが当たり前だと思っている人がほとんどである…という現実です。

いくら「障害者の入所施設を解体してグループホームに移行、あるいは自立生活を支援しよう!」と福祉関係者が訴えたとしても、児童が児童養護施設に住むことを不思議に思わない圧倒的な周りの社会環境では…

「恵まれない児童が児童養護施設に住むのが当たり前なのに、何で自立が困難な障害者が入所施設に住んではいけないのか?」という声を前にしては、ほとんど無力だという現実です。

また、植松被告が自らの思想の「根拠」として再三述べていたのが、「社会的経済の余裕がないこと」でした。
日本の景気が後退し、財政が悪化するなかで、これ以上「人間としての能力に欠ける人」のための社会保障費を捻出する余裕はないというものです。

これに対して世間では、植松被告の差別的、選民的な思想に対して、「健常者であろうと障害者であろうと、ひとりの人間として人権があり、平等である」…と、

「意思の疎通ができなければ人間ではない」とか「生産性がなければ人間ではない」などといった彼の主張に対して、真っ向から反対の声を挙げる人も大勢います。

しかし、彼の「極端な考え」は、実は社会と地続きであるような気もするんです。

つまり、「障害者が入所施設に住むことの、どこがおかしいのか?」という世間の意識と同様の考えと地続きが同じものではないかと思うんです。

私たちの間には、「家庭に障害者がいれば、親や家族が面倒をみるのが当然」として、それができない場合には「施設に預けるよりしょうがない」という考えが蔓延ってはいないだろうか?

そして、社会によりどころをなくしてしまった人を、最終的には家庭に引き取らせて「なかったことにする」動きに対してあまり異議が出ないのも、実は皆がうっすらと「この社会は余裕がないのだから、社会性、生産性がない人まで世間が面倒をみることはできない」という前提を、暗黙裡に共有しているからではないだろうか?

どこかでグループホームを設置しようとすると、まず近所住民の反対に遭うという事実を、今までどれほど多くの施設運営者が体験してきたことだろうか…。

植松被告の思想をどれほど強く否定したとしても、私たちの社会の根本には、「人間を、能力の高低や他者にもたらす便益の大小で選別するのは仕方がない」という考え方がインプットされているのではないだろうか?

これから医療費や介護費など社会保障費は、おそらく毎年のように増えていくことは必至でしょう。

今後は、医療・介護従事者の供給が高まるニーズに対応しきれなくなり、木村議員が述べたような「介助する側もされる側も疲弊する」状況が、改善するどころかさらに深刻化してしまうのは目に見えています。

個人に実感を伴うようなかたちで、医療・介護の経済的・人員的負担がいまよりずっと重くのしかかる時代になって、「もう、これ以上生産性のない事業や生産性のないものに、現役世代がお金も労力も吸い取られるのはおかしい」という論調が広く支持されるようにならないだろうか?

世界的に格差社会が問題になる中、それを単に政治のせいにして言うのは簡単でしょうが、それで解決する問題だとは思われません。

「能力のない者を養う余裕などこの社会にはない」といった植松被告の思想や主張に対し、「絶対に受け入れられない」と拒否し明言するのであれば、社会に対して説得力を与えるような論理で議論を展開し、それを批判するような世論を作っていかなくてはならないのではないだろうか…。

そうでなければ、植松被告が抱いた憎悪に、本当の意味で打ち勝つことはできないと思うのです。

僕のFacebookでの投稿にはあまり反応がなかったですけど、裁判が始まった今、改めて社会の意識を変える必要があること、そして誰かが声を挙げなければいけない切実性を改めて感じています。

ホント、そうでもしなければ、この「名も無い犠牲者」や何十万人といる仲間や同胞が救われないじゃありませんか…

そして、海外へ

⚫︎「ネクスト・ストップ・モスクワ」への参加

1989年といえば、ロシアがまだソ連と呼ばれていた終わりの頃で、ゴルバチョフの「ペレストロイカ」旋風が起きていた頃です。

この頃は、旧ソ連の内部で表現の自由を求めていろいろな動きがありましたが、スカンジナビアの若者の間で、これら旧ソ連の若者たちと自由に交流しようと言う運動が起きました。

若者たちはその中で「ネクスト・ストップ・モスクワ」というイベントを立ち上げ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーのスカンジナビア諸国から5000人の若者がモスクワに行き、現地の若者たちと文化交流を行おうというものでした。

「ネクスト・ストップ・モスクワ」というのは、バスなどでいう「次の停車は、モスクワです」という意味です。

つまり、スカンジナビアの若者たちが、バスに乗る感覚でモスクワに集まり交流し、そしてモスクワの次の停留場は、また改めて決めようという企画でした。

その若者たちの中に、エクトルプ・デイセンターの職員をしていたカメラマン志望の女性がいて、ある日、EKOもそのイベントに参加できないだろうかと話を持ちかけてきたのです。

「ソ連では、まだ市民が自由にものを表現する機会が少ない。そこで知的障害者のグループであるEKOがモスクワに行って、大勢のモスクワ市民に、障害者が生き生きとステージで演奏する姿を見せてやりたい」というわけです。

もちろん、僕らもその話に飛びつきました。

モスクワに行って、障害を持つメンバーが自由にロックを演奏するというのも、正に「ロックン・ロール」ではないか…。

旅費や滞在費は助成金で補うということで、まあいろいろな苦労はしましたが、社会省に頼み込んだり、とにかく考えられるすべての手段を駆使して、とにかく参加のメドがつきました。

助成金を集める過程で、このプロジェクトを記録するという話になり、テレビチームも同行して密着取材もすることになりました。

そして、また大型バスを借り切って出発したのです。

受け入れ側では、宿泊するホテルのレストランでの演奏も予定していました。
それで、着いてから二日目、僕らは結構格調高い、ある大きなホテルのレストランのダンス場に機材を持ち込み、ろくに音響チェックもせずに、いきなり演奏を始めました。

僕らの演奏の前には、ロシアの楽団がポピュラー音楽やロシア民謡などを演奏していましたが、僕らが機材を持ち込んで仕込みをしている間中、何が起こるのかというような表情で興味深げに観察をしていました。

お客も、おそらく障害者というのは今まで見たことがないというような表情で、これも興味深げに見たり、あるいは見ない振りをしていました。

そして演奏が始まると、ロシアの楽団もレストランのお客も最初の二曲くらいは目を丸くして見ていましたが、次第に口元に微笑みが浮かんできて、曲が進むにつれて手拍子をするようになり、演奏の中頃にはダンスフロアに出てきてダンスを始めたのです。
ダンスにも次第に熱が入り、みんな汗を流して踊っていました。
演奏が終わると、「アンコール」の声が鳴り止みませんでした。

ロシアの楽団のギター弾きは、僕らのギターを珍しそうに触り、僕が使っていたピックをプレゼントすると、嬉しそうに、何回も「スパシーボ(有難う)」を繰り返しました。

次の公演は市内の養護学校ということでしたが、行ってみると、一般的に僕らが知っている養護学校というのとは、まったく様子が違っていました。
そこは寄宿舎のある学校で、寄宿舎の建物には50人くらいの生徒が二列に並んで寝るように、ベッドがきれいに整頓されていました。

演奏が予定されていた体育館のような場所で演奏が始まる頃には、200人くらいの生徒がすでに集まっていました。
しかし、どこを見ても、僕らが普段接している知的障害をもつ子供の姿は見えなかったのです。

中には肢体不自由児という生徒もいましたが、ほとんどの生徒は、一見する限りでは何の機能障害を持っているのか、見分けがつかないのです。
もしかすると、親のない子どもであったり、あるいは何かの学習障害という児童たちかもしれないと思いました。

演奏中、それらの生徒は実に行儀よく席に座って、曲に合わせて手拍子を打ち、曲が終わるときちんと拍手もしました。

でも、スウェーデンの学校で見られるような素直な反応は、最後まで見られませんでした。

それにしても、養護学校というのに、ダウン症や自閉症の子どもたちはどこにいるのだろうと、僕らはそこから出てから話したものです。

宿泊ホテルから少し離れた公園を散歩している時でしたが、メンバーと歩いていると、近くを散歩していた若者が数人こちらを見ながら、小声で何かを話していました。

もちろんロシア語だから何を話していたのかは分かりませんが「Idiot(白痴)」という言葉は、僕にも聞き取れました。

⚫︎エストニアの視覚障害オーケストラ

モスクワでの公演の様子は、ソ連の放送局でも全国にラジオ放送したらしいです。

それと、僕らの受け入れ先だった団体が、当時はソ連に属していたエストニアの文化省に話をしたということで、それから一年後の1990年10月、僕らはエストニアの文化省と放送局から招聘され、全国公演を行いました。

エストニアの首都タリンまでは船で行き、タリン市の高級ホテルに宿泊して、1週間の間、タリン市やいくつかの地方都市を回りました。

エストニアは、言語的にはフィンランド語と同じ系の言葉を話し、また歴史的にもスウェーデンとは関係の深い国です。
モスクワとはまた違った雰囲気で、市民もどちらかというと物静かな感じがしました。

公演は、学校や地方の公民館など公共の施設で行われましたが、地域によって受け入れ方も様々でした。
ある地域では、その地域の障害者団体が受け入れ先で、そこの委員長はその後いくつかの公演にも同行しました。
彼も、また他の障害者団体も、僕らの公演を非常な熱意で迎えてくれて、地域にある障害者が作った工芸品などを展示してある場所にも案内してくれました。

この場合の障害者とは、身体障害をもつ人です。

彼らの話によると、このような演奏会に出かけるということ自体が全く珍しいことで、例えば障害者の団体で集まりがあったとしても、連絡することすら難しいというのです。

話をもっと聞いてみると、電話を持っていない人が多いというのです。
また、仮に近くに電話を持っている人がいて連絡がついたとしても、車椅子で出かけるのは難しいということでした。
タクシーというのもあるにはありますが、とても余暇に何処かへ出かけるためにタクシーを使う余裕はないと言っていました。

電話がないから連絡もつかないので、こうして集まるのも大変なんだ、という言葉に僕は凄く重みを感じて、その委員長が演奏会に何回も参加してくれる度に胸が詰まってしまいました。

知的障害者の施設も訪問しました。
スウェーデンにはもうなくなって久しいタイプの施設で、入所の施設と日中活動をする場がありましたが、日中活動の場はいろいろな訓練の場でした。

ある演奏会では、そこに住む障害児も招待され、演奏が始まると、見学で見た様子とはガラッと変わった喜びの表情を見せていました。

音楽というものにはもちろん接しているのでしょうが、もしかしたら喜びを表現するということとは違う接し方なのかなとも思いました。
同行していた英語を話す音楽の教師が、「うちの障害児があんな表情をするのは、初めて見た」と言うのです。

そういえば、ソ連の障害者教育理論というものが、世界的にも評価が高いということを思い出しました。

タリン市内で、ある視覚障害者のオーケストラと合同の演奏会をした時のことです。

演奏の場所は福祉関係のセンター風の建物で、その中にある大きな会場で演奏することになり、僕らは用意された機材や楽器の仕込みをして演奏を始めました。

視覚障害者楽団のメンバーは壁際に用意された椅子に座って、僕らのロック演奏をジーっと聞いていました。
手拍子もなかったし、曲が終わってからも別に拍手をするわけでもありません。
視覚に障害があるためか、ある人は耳を傾けるように、またある人は俯いたまま、何かを探るように黙って聞いていました。

やがて彼らの番になり、演奏者は係の人が準備したそれぞれの席につきました。
各々自分なりの格好をして、そのまま何かを待っている様子でした。

やがて、軍服かと思われるようないかつい格好をして帽子までかぶった男性が前に出てきて、指揮棒を鳴らすと演奏が始まりました。
一般的な交響楽団のような編成で、曲も交響曲やロシア民謡などでしたが、演奏の途中でふと気がついたのですが…

交響楽団に指揮者がいるのは何も不思議ではないのですが、楽団全員視覚障害者です。
みんなそれぞれの姿勢で音を聞きながら演奏しているのですが、誰も指揮者の指揮棒を見ていないのです。

演奏は確かなもので、僕らも久しぶりに交響楽団の演奏を聞いたわけですが、演奏が終わると、指揮者は軍隊長の帽子を取り、タクトを小脇に挟んで礼儀正しくお辞儀をして、サッと下がっていきました。

残りの楽団員は、しばらく席に座ったままでしたが、指揮者が退場したのを察したのか、一人ずつ自分のテンポで舞台から下りていきました。

視覚障害者の交響楽団で、指揮者はどうやって指揮棒で演奏をまとめていったのか、一度聞いてみたいと思いました。

⚫︎トリニダード・トバゴの「スペシャル・チャイルド」

1991年にEKOがエクトルプ・デイセンターから独立して、独自の「EKOデイセンター」になり、新しい拠点に引っ越すと間もなく、ストックホルム市にある音楽博物館の館長から連絡がありました。
カリブ海にあるトリニダード・トバゴに公演に行けないかという問い合わせです。

その館長は、本人も軽い脳性麻痺の症状を持つ人ですが、カリブ海諸国の音楽、とりわけトリニダードのカリプソのリズムの権威です。
今まで何回となくトリニダードを訪問し、スティールパン(ドラム缶を利用した、トリニダード独特の楽器)のバンドをスウェーデンに招聘もしていました。

話によると、あちらの政府関係の奥さんが養護学校設立のためにチャリティコンサートを開くので、EKOを招聘したいと言っているということでした。

調べると、赤道直下に位置するトリニダードとトバゴという二つの島からなる国で、気候は年間を通して気温が30度ということで、北欧からみると常夏の国、白い浜辺に椰子の木、それにカーニバル…。

すぐに受託の返事をしました。

飛行機はストックホルム郊外のあるランダ空港から直行便が出ていますが、人数の関係で、グループを、直行便とロンドン経由、それにマイアミからバハマ経由という三つのグループに分けて、最終的にトリニダードで落ち合うことにしました。

僕のグループは直行便で到着しましたが、飛行場に着くとすぐ、VIPの待合室に通されました。
他のグループは次の日に到着するので、とりあえず、夜の暗闇の中、首都ポート・オブ・スペインの最高級ホテルに向かいました。

飛行場から市内までは迎えの車で行ったのですが、見ると沿道のいたるところに、家の屋根や庭の木、果ては芝生にまで灯りが燈っていました。
聞くと、その日はヒンズー教の祭日だということです。

この国の人全部がヒンズー教とも考えられないのでさらに聞くと、案内の人が、「この国は、みんなどこかの血を引いているから、何の宗教だってお祭りをするんだ」と言っていました。

昔、イギリス、スペイン、フランスなどの強国がほとんど同時にこの島に来て、アフリカやインドなどの植民地から人を連れてきたそうで、とにかくいろんな人種がいます。

出会う人の多くは、その圧倒的多数が黒人系ですが、アフリカ系、インド系、アラブ系、白人系、中国系と様々な人種が混血されているようで、そこでは自分が何系であるかなどということを考えることさえ無意味であるような気もしました。

さて、僕たちを招聘したのは、元大臣の経歴を持つ白人系の野党党首の奥さんでした。
孫にダウン症の娘がいます。

国中にいろんな人種がいるので、他の人と違って見えるということでは特別人の目を引きません。
その孫娘も、近所の人からはとても可愛がられている印象を受けました。

しかし、ダウン症ともなればそれに適した学校が必要ですが、いわゆる養護学校というものは数が少なかったのです。
そのため、チャリティショーを開いて資金を集め、新しい養護学校を開くというのが今回のイベントの趣旨でした。

ちなみに、養護学校のことを、その奥さんは「スペシャル・チャイルド・スクール」と呼んでいました。
知的障害でも障害児でもない、”A Special Child” です。

公演会場は、8000人を収容する市立競技場でした。
僕らも、今までいろんなところで演奏しましたが、8000人というのは、想像を超える数字でした。

実際には、その競技場の中央にステージがあり、競技場の観客席の半分を使うということで当日は3500人集まったということですが、とにかく大きなコンサートであったことには変わりありません。

おまけに、EKOの他にもトリニダードを代表するポップバンドや、高校のスティールパン演奏全国大会で優勝したグループなども競演するということで、前評判も非常に高いものでした。

開演の時刻が近づくと、会場はほとんど満席の状態になり、カーニバルの衣装を着た集団もあちこちにいました。

トリニダードは、ブラジルと並んで年に一度のカーニバルがあるので有名で、僕らが滞在中は、スティールパン・バンドの練習の音が、町中どこからでも聞こえてきたものです。

大きな野外ステージの前には、貴賓席が用意されていました。
何と、政治家や偉い人たちと一緒に、僕らのためにも用意されたものでした。

突然、スウェーデンの国家がテープで流され、参加者全員が起立すると、僕らが持っていったスウェーデン国旗が掲揚されました。
僕らも、もちろん起立して、スウェーデンの青地に黄色の十字架が美しい国旗を仰ぎ見ました。

「オリンピックやスポーツの世界選手権で表彰台に上る選手は、国旗掲揚、国家演奏をこんな気分で味わうんだろうか?」と、ふと思いました。
僕らのために、スウェーデンの国歌が流され国旗が掲揚されて、観客が敬意を評している…。

ふと隣を見ると、メンバーもスタッフも神妙な顔をして国旗を眺め、国歌を歌っていました。
「僕らのために…」またそう考えた時、目頭が熱くなりました。

3500人の観客を前にした野外ステージにスポットライトが当たると、ステージから見る観客席は真っ暗で、観客の反応も見えにくいものです。

でも、ちょうどその日はニッセの誕生日でもあったので、僕が音頭をとって「ハッピー・バースデイ」と即興で歌い出すと、3500人の大合唱が後に続きました。

それで、観客席にも僕らのメッセージが届いているのだと確信できました。

トリニダード滞在中は、政府観光局から特別の案内人が差し向けられていて、公演前には島中を案内してくれていました。

公演が終わってホテルについてきたその案内人は、「正直言って、初めのうちは、一体このグループに何ができるのかと思っていたけど、あの公演を見て、みんなプロだということが分かった。今度プライベートでくることがあったら、いつでも連絡してほしい」と言って、改めて握手を求めてきました。

公演が成功だった証を、ここで貰ったと思いました。

次は、「日本公演ツアー(その1)」に続きます…