アイデンティティーの話!

僕の住んでいるところには、外国からの移民が多いということは前にも書きましたけど…

イスラムの衣服であるガラバイヤを着ているヨーロッパ人を見たり、アフガニスタン人から「兄弟」と言われて戸惑ったり、自宅のバルコニーから見える児童公園でスウェーデン語で遊んでる子供たちを見ると、時々アイデンティティーということを考えます。

日本にいた若い頃は、自分のアイデンティティーというのはあまり考えたことがなかったし、強いて言えば、子供の頃に北海道以外の地域のことを「内地」というのを聞いたことがある程度…

あとは、身に覚えのない「昔は士族」ということに不思議な気持ちを覚えていたくらいでした。

こっちに来てからは、もちろん自分は日本人だということは自覚してるし、日本とスウェーデンと比べて「これはおかしい」とか、日本の方が良いとか悪いとか考えたことはたっくさんあるけど…

それでも、自分のアイデンティティーを考える…というのともちょっと違って、「俺は俺」的に過ごしていました。

人はそれぞれ違うというのは、どこへ行っても同じですから…

でも、それ以降ですけど、自分で「えっ?」と思ったことも何回かあります。

最初は、こっちに来てから10年もたった頃…

ある時自宅で何気なしにラジオが流れてるのを聞いていて、何か不思議な楽器で…聞き慣れたような…ないような曲が流れているのに気が付いた時…

「あれっ、これバンジョーみたいだけど、そうでもないし…ブルースのようにも聞こえるけど、そうでもない…」と思いながら聞いてると、曲が終わった後でコメンターが…

「ただいまのは、日本の『ツガルジャミセン』という楽器の演奏でした」と言ったのを聞いて、ホントにビックリしましたね…

日本にいた時は、芝居は新劇、音楽はフォークやロック、演歌は酒場で聞く音楽で…「歌舞伎や浄瑠璃なんて、何言ってるかもわからん」ってな調子で、どっちかというと、正直日本のものよりもアメリカ・ヨーロッパ的なものを追っていた感じだったし、僕の世代そのものがそうだったような気もしてました。

ところが…

その時、バンジョーかと思ったのが津軽三味線で、ブルースかと思った曲が東北の日本民謡っだってわかって…

「俺は一体、日本の何を知っているんだろう?」という、いわば逆カルチュアショックを、ドカーンと感じたわけです。

こっちに来て10年も経って、それこそ黒人や白人、いろんな国からの人と演奏やって、こっちの生活にも馴染んで…

いろんな人と日本人や日本についても話をして…

でも俺は日本って国、実はよく知らなかった…って気付いた時のショックは大きかったです。

それからですね…禅の本を読んだり、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読み漁ったり…

インターネットなんて、まだなかった時代の話です。

それからまた10数年経って、スウェーデン人のグループと日本に演奏ツアーに行った最初の年に、ある人に…

「JRって何ですか?」とか「NTTって?」と聞いたら、その人から…
「オターキさんって、日本人なんですかスウェーデン人なんですか?」って聞かれた時…

もっと経って、ガンで入院していた親父との今生の別れを前に札幌の病院を訪ねたら、親父がお袋に「お前…もうあいつは日本人じゃないんだから…気にすんな!」って病室でコソッと言ったのをドア越しに聞いた時…

まぁ、他にもそんな話はたくさんあるんですが…

とにかく、自分はスウェーデン人でも日本人でもないって思わされる時があって、「じゃあ、俺は何人なんだよ?」って思うことも度々でした。

時々…何か考えたり、人と話していて…

「俺がこう考えるのは…

俺がスウェーデン長いからか?
それとも、日本から来たからか?

そもそも、日本から海外に出てしまうような俺だからか?
それとも、今は、ただそういう俺だからか?」

などなど…

でも…

今、こうしてバルコニーの外から、いろんな人種が、その人種ともまた違うだろう子どもたちと公園で語らってるのを見て、

改めて、「何人なんて関係ない。自分は自分!」って、つくずく思いますね。

そして、日本人とか侍の末裔とかそんなこととは無関係でも、自分の子どもに「侍って、何?」と聞かれると、「う〜ん、文武両道ってこと大切にする人かな?」って言ってます。

侍の由来とかどんなもんかはある程度教えてあるけど、それでも、子どもなりに気になるらしい。

それにしても、「文武両道」って、何も武士の精神だけじゃなく、本当はもっとグローバルなもんだと思ってます。

人間って、要は「身体を持って、考える存在」じゃないですか…

「自分なりの考えや知識を深めて、生きている身体を健康にすること」ですから、「文武両道」ってのは何も武士の精神っていうよりも、もっとグローバルなもんだと思います。

スウェーデン人にはそういう人いっぱいいますし、大体これって、何人とかどんな人とかって関係ない。

普通に、人間ってそういう生き物なんだと思います。

津軽三味線もグローバルだし、武士道もグローバルだし、そう思うと、人間って元々グローバルな生き物んですよね…

毎日の生活に欠かせない「フィーカ」!

フィーカ(Fika)というのは、スウェーデン人の暮らしというよりも、毎日の生活に欠かせないもののひとつです。

簡単に言えばコーヒーを飲むことなんですけど、そう単純でもない…。

日本的には「お茶を飲む」みたいなもんですし、一人で飲むときには単に「コーヒーを飲む」って感じですけど、「フィーカ」する時は、同僚とか友人とか家族なんかと一緒に飲むんで、社会的なことなんですよね。

それと、フィーカはスウェーデンの生活慣習というか、休憩の時間でもあるし、仕事や何かをしている時に何かの理由で「ブレイク」する切れ目でもあるし…

「この人と、もう少し親密になりたい」と思えば、「デートでないデート」としての意味を持つとか…ある意味、社会的な機能を持つ習慣なんです。

このフィーカ(Fika)という言葉はもともとスウェーデン語にはなかったんですが、この語源がどのように来たかにはいろんな説もあります。

スウェーデンの言語のエキスパートであるラーシュ・グンナル・アンダーションによれば…

コーヒーを飲むことをフィーカというのが定着したのは1910年と言ってますから、今から110年ほど前に出来た俗語だということです。

スウェーデン語でコーヒーはKaffe(カッフェ)と言いますから、カッフェの音節が逆になるとすればフェッカになるはずですけど…

Kaffe(カッフェ)というのが英語のCoffeeから来たとすれば、発音的にはコーフィーになるんで、kaffeをkaffiとも言っていたそうです。
Kaffiの逆音節とすればFikka、つまりFikaになる。

で、このフィーカには、甘い焼き菓子が付きもので、特にシナモンロールってお菓子とのコンビネーションが最もポピュラーですね。

このシナモンロールは、スェーデンでは一般的に「カッフェブッレ」(コーヒー菓子)と呼ばれていますが、スウェーデンが発祥だと言われています。

イースト入りのパン生地を伸ばして、表面にバターを塗って、シナモン、砂糖を振りかけてロール状に巻いた、甘いお菓子です。

「スウェーデンのテーブル」という本の著者へレーネ・ヘンダーソンによると、「客に無礼とならないためには、最低3種類の焼き菓子が必要であり、客を感心させるには、7種類の焼きたての焼き菓子を用意して、天気の話ができるようにしておく」というそうですが、

日本の茶道とは違って、そんな儀式的な意味はないんですが、やっぱり「その道」を徹底しようとする人はどこにもいるんですね…

でも、確かに複数の人が来訪する場合は、いくつものお菓子が並んでいるのが普通です。

「フィーカ」というのは「コーヒーを飲む」とか「コーヒーを飲みに行く」という動詞的な言葉ですが、

フィーク(Fik)というと、これも俗語ですが、「喫茶店」とか「コーヒーショップ」という意味にもなります。

こんなコーヒーショップに行かないまでも、スウェーデン人は、それこそ家庭でも、仕事でも…どこでもフィーカします。

家族で、森の中でピクニックしたり…

森でキノコ狩りの合間に、休んだり…

職場でのミーティングであったり…

庭園でフィーカするのも、趣があるもんです。

フィーカにはお菓子が付きものですが、そのほかにオープンサンドやちょっとした軽食と一緒にフィーカというのも普通です。

ちなみにですけど、僕のお気に入りは、エビのオープンサンドと…ちょっと小腹が空いている時は、それに菓子をプラスするやつ…

セムロルというお菓子は季節ものですが、そのセムロルが解禁の時期になると、店にいっぱい並びます。

最近は、コンビニで「フィーカ」を無料サービスするところも出てきました。

無料ですからね…

こうなると、もう社会的とか交流とかは関係なく…単なるコーヒー依存症の人へのサービスみたいなもんですけど、

スウェーデンも、フィンランドに次いで世界で最大のコーヒー消費国の一つですから、これだけ普及するとコーヒー依存症も増えるのかも…

そろそろ…僕もフィーカしたくなりました!
じゃあ、ここで…というところで…ちょっと…!