日本公演ツアー(その2)

⚫︎歓迎会、仕込み、演奏、打ち上げ、そして、また…

「うわ〜っ、あんなに旗がいっぱい!」、新幹線である駅に着いて改札口を出ると、みんな一斉に声をあげました。

改札口には、日本とスウェーデンの国旗を持った一団がいて、僕らの姿を見ると、「うわ〜、来た〜!」と言いながら、持っていた手製の旗を振って僕らを出迎えました。

その数、50人か60人、もしかしたら100人近かっただろうか…。
笑顔の波の前を、これまた笑顔を返しながら通り、僕らは待っていたバスに乗り込み、ホテルに向かいました。

公演地すべてがそうではなかったにしろ、多くの場合そんな風景が僕らを迎えました。
そして、ホテルに着いて一休みすると、歓迎会の会場に向かうのが常でした。

中にはホテルの中に会場があることもありましたが、とにかく、どこでも歓迎会の会場に着いてまず飛び込んでくるのは、テーブルの上に盛られたご馳走の山です。

一通りの式を終えると「乾杯」になり、僕らは文字通りご馳走に舌鼓を打ちました。
そして、あちこちで交流が始まります。

時には地元のアトラクションもあり、特に日本舞踊やその地方の民謡などは、EKOのみんなも目の前に繰り広がられる光景に見とれていました。

「お箸は使える?」とよく聞かれましたが、両手に杯を一本ずつ持ったり、箸でつまむのは面倒くさいとばかりに料理に突き刺して、それでも結構満足気に食べているメンバーの様子を見て、接待する方も、珍しい箸の使い方に感心していたこともありました。

次の日は、公演です。
開演は夕方過ぎというのが普通でしたが、機材の仕込みは午前中から行われます。
EKOはリハーサルというものはしない方針なので、仕込みには音楽リーダーだけが出かけ、メンバーは他のスタッフとホテルに残るのが常でした。
今まで演奏は数え切れないくらいやっているし、また本番の時にこそエネルギーを出し切らないといけないので、いつもぶっつけ本番でした。
その代わり、音響や照明係の人のために、リーダーはそれらのスタッフと時間をかけて入念に仕込みを行いました。

そして、本番です。

公演の時間が迫ってくると、一旦戻ったリーダーも他のメンバーやスタッフと一緒に会場に入り、用意された楽屋で舞台衣装に着替え、楽器の調子を合わせて開演を待ちました。

演奏の様子は省略するとして、とにかく汗だくになって全員が楽屋に戻ると、急いで着替えをし、またバスに乗り、今度は打ち上げの会場に向かいます。

打ち上げの会場には、今まで何ヶ月も公演の準備をして、公演が上手くいくように不安を抱えながら一所懸命に動き回り、ようやくそれが報いられた大勢の人が僕らの来るのを待ち構えていて、お互いが出会うと「イェー!」「良かったー!」「ご苦労さまー!」の声があちこちで響きわたり、ビールの栓が抜かれ、ご馳走に飛びつき、これまた汗だくの交流が始まります。

そして、夜も遅くなる頃、僕らはまたバスでホテルに向かいます。
次の日は、移動です。

次の日の打ち合わせのために主催者の人を交えてのミーティング、その後荷造りをして、洗濯物があればそれも片付けて…。
翌日は、早くから新幹線です。

公演の間中、これが実に1ヶ月以上も続いたわけですが、そうすると、大体二日おきにこれが繰り返されたことになります。
どこでも歓迎会は素晴らしかったし、公演も成功裡に終わり、打ち上げは何回やっても楽しいものでした。

しかし、何回も同じことをしていると慣れが出てくるのもまた自然なことで、公演先に移動をする度に、これからあることは予測されるのです。
「またか!」と思う者がいてもおかしくはないのですが、全員、どこへ行ってもまるでそこが初めての体験であるように振舞いました。

行く先々では出会う人も違い、歓迎会の様子や演奏の感じももちろん違うので新鮮に感じたのかもしれませんが、そればかりではありません。
どこでも様子は違いましたが、僕らを待っている気持ちや、公演にかける期待感は、どこでも同じで熱烈でした。

僕らは行く先々で同じことをしていたとしても、その地域の人にしてみれば、初めてEKOに出会うわけです。
そして、その熱意には僕らも同じ気持ちで接しなければいけません。

それが、今まで苦労をして公演を支えた人たちへのお返しであり、一所懸命演奏することが、僕らからのお礼でした。
それは、EKOのメンバー全員が、行く先々で体験として感じているものでした。

⚫︎表敬訪問とプレゼント贈呈役

日本公演では、訪問先で「表敬訪問」というものがあちこちで行われました。
地元の主催者や福祉関係者にとって、EKOと一緒に知事や市長などを訪問することは、行政に地域での福祉をアピールする良い機会であったのでしょう。

表敬訪問となると、よくプレゼントの交換というものがあります。
お互いお土産を用意しているのですが、僕らもデイセンターのグッズとかスウェーデンからのお土産を渡すことになって、さて、誰がプレゼントを渡す役をするのかとメンバーに聞きました。
そうすると、真っ先に手を挙げるのが、あの恥ずかしがり屋のアンダッシュです。

彼は、勿体ぶった仕草でプレゼントを渡すと、握手を求めることも忘れませんでした。
お互いがプレゼントを交換すると、居合わせた地元の新聞記者やカメラマンがカメラを向け、テレビ局の人はカメラやマイクも突き出します。
そうするとアンダッシュはカメラに向かい、茶目っ気たっぷりにVサインをしたものです。
公演を通して、彼は表敬訪問の時には、僕らの顔となりました。

アンダッシュは、人一倍恥ずかしがり屋でした。

彼は人と喋ることは嫌いではないし、むしろ話ができると思う相手には、前日見たテレビのニュースのことを喋ったり、お気に入りのサッカークラブの活躍を話すのが好きです。

しかし、言葉が容易に出てこないし、相手が彼の話をよく理解してないことも知っていました。

なので、話の途中で相手が確かめるように何かを聞くと、途端に喋るのを止め、持っている紙袋を頭から被って、話を続けることを拒むことがよくありました。

音楽やダンスが好きな彼は、デイセンターで音楽のセッションがある時は、部屋にはいるのですが話の中には中々入ろうとはせず、かといって部屋から出るわけでもなく、壁沿いに歩きながら、いつもセッションには注目していました。

音楽が好きなことは自他共に認めるところでしたので、EKOを結成して演奏を始めるようになると彼を誘い、彼も喜んでついてきました。
そして、EKOのメンバーになってからは、すぐさま演奏活動にも積極的に参加するようになったのです。

大阪の高速道路をバスで走っていた時、アンダッシュは僕に、「彼はどこにいる?」と聞きました。

彼とは誰のことかとしばらく考えると、それより半年前に、日本から障害者交流の企画で、あるダウン症の男性が彼の実家にホームステイしたことを思い出しました。
「彼のこと?」と聞くと、そうだと言います。

その男性は東京に住んでいて、実は、お母さんからはEKOの日本公演で東京に来る際には、是非アンダッシュとも会いたいという連絡も入っていたのですが、その時はすぐには思い出せなかったのです。

東京の公演はまだ先のことで、僕らは日本に着いて間もなく、おまけにそこは大阪でした。
アンダッシュは、もちろん東京という言葉は知っていましたが、大阪も東京も区別はつきません。
そもそも、スウェーデン人にとっては、大阪も東京もとてつもなく巨大な都市です。
とにかく、ここは東京でなく大阪という別の都会であることを説明して、彼も分かったようでした。

やがて東京に来ると、それまでに連絡もあって、その男性とお母さんがホテルまでアンダッシュに会いに来ました。

そして、時間があれば二時間くらい、アンダッシュを自宅に招待したいと言うのです。
僕は、それは構わないけど、僕は忙しいので付いて行けないと言いました。

するとお母さんは、アンダッシュ一人でも良いから、どうしてもアンダッシュを自宅に連れて行きたいと言います。
そこで僕がアンダッシュに聞くと、彼は行くと答えました。

「一人で行ったら、言葉も分からないよ。みんなスウェーデン語は話さないから」と言うと、アンダッシュは「いいよ、行く」と言うのです。
それで、三人はタクシーに乗って出かけ、夕方にはまた三人で戻ってきました。

僕は、まったく言葉の分からない環境でアンダッシュがどんな風だったのか知りたくて、お母さんに聞くと、「楽しかったですよー。身振り手振りで話して、コタツに入ったり、テレビを一緒に見たり…」と、本当に嬉しそうに報告をしました。

僕は、本当にアンダッシュがどう感じたのか知りたくて、「どうだった?言葉、通じた?」と聞くと、アンダッシュは何をつまらないことを聞くのかと言う顔をして、「OK!」と肩をすくめただけでした。

「あの、恥ずかしがり屋のアンダッシュが?」と思いましたが、プレゼント贈呈役のことも思い出し、彼の変わりように驚いたものです。

⚫︎不安と疲れで…それでもリズムを…

「ネッタンのブルース」のネッタンは、それまで情緒的に不安定だったことは前にも述べました。

時々情緒が不安定になるのは仕方のないことですが、グループで活動するようになってからは、少しずつその不安を自分なりにコントロールすることも出来るようになってきました。

デイセンターとグループホームとの連携も上手くいって、お互いが相談しながら彼女の日常を組み立てて、またその都度彼女にも説明をし、なるべく変化というものを少なくしていきました。

それに加えて、デイセンターではスタッフのアニカが特別に彼女に関わり、何かあると慰めたり励ましたりしてネッタンのサポートをする役目をするようになりました。

今まで、「人は自分の話を聞きたがらない」ということは知りながら、それでも「これから先」が見えなくて不安なために、どうしても人に喋らずにいられなかった彼女です。
そして、人に触れて安心するためには喋るしか方法がなく、それでも駄目だとなれば自分を傷つけなければならなかったネッタンには、音楽でそれを発散することや、アニカの存在は大きかったのです。

演奏の前には、その後にタクシーはちゃんと来るのか、グループホームに遅く帰ると、いつもの職員はいるのか、今日の演奏は何時に終わるのか、終わったらすぐ帰れるのか、全て不安の対象になり、その全部をアニカに聞くのです。
アニカは、いつも辛抱強く対応していました。

1日だけの演奏という場合だとその日が不安になるだけですが、ツアーともなれば、大体日常そのものが不規則の連続です。

時間的には、朝起きて移動して、演奏して泊まって…というのが規則的に起こるとしても、場所も出会う人も毎回違います。
不安材料はいつもの何倍も何十倍もあるのに、それでもネッタンはツアーには行くと言って聞きませんでした。

EKOの演奏では、ネッタンは司会役もします。
曲の順序は、それはもう変えられると絶対に困るというもので、そのためにネッタンも司会者役を人には譲りたくありません。
外国でスウエーデン語は通じないことだって、構っていられないのです。

ところが、スウェーデンではネッタンの司会で事足りて、ベース弾きのペーテルが補足するだけでよいとしても、外国だとペーテルが英語でイニシアティブをとることが多いので、不満が溜まることがあるのかもしれません。

ツアーは長いし、外国です。
不安材料はますます増えるし、日本ではそれが5週間も、時には7週間ということもあったので、終わりがないほど長くも感じます。

そういう状況があるので、舞台では、僕はいつもネッタンの横に立っています。
ボッセやヤンネもいるし、車椅子のマリアも一番端にいるので僕の守備範囲というのも狭くはありませんが、僕がどう動こうと誰と関わり合おうと、意識はネッタンにいっていることが多いものです。
ネッタンも、演奏中に何か不安になると僕にサインを送るし、僕も演奏しながらそれに返すようにしています。

ところが、特に日本公演のような大きな舞台だと、舞台の上だけ気にしてるわけにもいきません。
舞台の前には、時には2000を越す目があるし、目の前には何十人も踊っていて、ヤンネやアンダッシュと前に出てロックンロールする場合も結構多いものです。

ある時、そんなパフォーマンスをしていて、ふと振り返ってネッタンを見ると、彼女は腰を屈めてマイクの前で深々とお辞儀をしたような格好をしていました。

彼女が何かに不安なだけでなく、前の晩に眠れなくて崩れるような疲れを感じている時によく見る姿勢です。
黙っていれば、そのまま倒れてしまうかもしれませんでした。

「まずい!」と一瞬思い、演奏を続けながら舞台の前から戻ってネッタンの横に行き、ネッタンと何かしているような格好をしながら、僕も腰を屈めて低い姿勢を取り、ネッタンの表情がよく見えるようにしました。
確かに、凄く疲れた表情でした。

そして、その姿勢のままネッタンの長い腕がぶら下がっている先を見ると、床すれすれにまで下がったネッタンの両手の指が、微かな動きで拍子をとっているのが見えたのです。
両手が合わさるようにだらりと下がった腕の先で、ほとんど見えないような動きでしたが、両手の人差し指を合わせて、確かにリズムを取っているのです。

その直前にネッタンが何を考えどう感じていたのかはわかりません。
僕は、ヤンネやアンダッシュと舞台の前で、観客と「イェー!」とロックンロールしていたのです。

でもネッタンは、きっと体が崩れ落ちそうになるくらいの不安と疲労の中で、一所懸命演奏することで自分をコントロールしようとしていたのかもしれません。

「そんなに疲れて、不安だったのか…」と思いながら、僕は床まで屈んだその格好のまま、ネッタンの指の動きに合わせてギターの弦を爪弾きました。

その時、僕の頭には、舞台も日本も、観客もありませんでした。
ネッタンの指に合わせて、「終わりまで頑張ろうな!」と、一所懸命音を返しているだけでした。

次は、「EKO日本公演ツアー(その3)」に続きます…

スウェーデンとコーヒー!

前に、スウェーデンの「フィーカ文化」について書きましたけど、また…コーヒーの話です。

イタリアといえばエスプレッソ、フランスはカフェ・オ・レとか…

あるいは、コーヒーはブラジルだろうとか、いやグアテマラやキリマンジャロがあるじゃないかとか…まぁ、世界にはコーヒーを巡ってもいろいろあるみたいですが…

じゃあ、世界中でコーヒーの消費国ってどうなんだろうと思ってみると、意外な世界地図が見えますね。

コーヒーの年間消費量の多い国というと、

1位:ルクセンブルク 2844杯
2位:フィンランド 1212杯
3位:デンマーク 946杯
4位:ノルウェー 921杯
5位:スイス 799杯
6位:スウェーデン 789杯
7位:ドイツ 679杯
8位:オーストリア 646杯
9位:カナダ 635杯
10位:スロベニア 606杯

ということで、イタリアもフランスも、あのスタバのアメリカも入ってない…。

「イギリス人は、紅茶ばかり…」と思っていたら…

11位:ブラジル 582杯
12位:イタリア 577杯
13位:フランス 547杯
14位:イギリス 533杯

なんと、あのエスプレッソのイタリアやカフェ・オ・レのフランスの次に多いらしく、

アメリカはずっと下がって、411杯で20位、日本はというと、340杯で30位です。

こうしてみると、2位にフィンランド、3位と4位はデンマークとノルウェー、スイスを5位において、スウェーデンは6位ですから、北欧勢が上位を占めています。

ルクセンブルグが、2位のフィンランドの倍以上の消費国でダントツ1位というのは、ちょっと意外でしたけどね。

でも、とにかく北欧の人はコーヒー好きで、僕も含めた外国からの移住者も、こっちにいると決まってコーヒー依存症になります。

何せ、「フィーカ文化」のスウェーデンですから…

昔、1ヶ月くらい日本に滞在してスウェーデンに帰る時に、それまで日本で毎日コーヒーは飲んでいたんですが、SASの飛行機に乗ってあのスウェーデンの濃いコーヒーを飲んだ途端、「あ〜、ようやっとコーヒーが飲めた!」って気になったもんでした。

はい、スウェーデンのコーヒーは濃いんです。
で、スウェーデンのコーヒーですけど…

大きく分けて、二種類の入れ方ががあって…、一つはどこでもよく知られてるドリップ型のコーヒーと…


もう一つは、沸かして飲むコーヒー。

これは、コーヒーを煮て、お湯が沸騰して少ししてからコーヒーが沈むのを待って、上澄みのコーヒーを飲むというもの。

このタイプは、どちらかというと北の方の人に好かれていて、フィンランドでも、こういうコーヒーの方が好きな人が多いみたいです。

そういえば、西部劇なんかによく出てくるカーボーイが火をおこして、ヤカンとか鍋みたいなもので熱そうなコーヒーを飲むシーンがありますけど…

北の方の人間は、昔からこういう飲み方をしていたみたいです。

コーヒーといえば、昔こんなことがありました。

音楽をやっていた頃、演奏していたクラブのキッチンで立ち食いをしてその後コーヒーを飲んだんですが、当時はコーヒーに砂糖を入れて飲んでいたんで、出された砂糖の皿からスプーンで入れて飲んで…思わず「ブ〜っ」と吹き出してしまったんですよ…。

砂糖と思ってタップリ入れたら、実は塩!

キッチンにいたユーゴスラビア人のコックががイタズラして入れたらしく、僕が口から吹き出したのを見て、手を叩いて笑ってました。

いや〜、冗談っていうのもいろいろあるだろうけど、コーヒーに塩を入れてイタズラするなんて、聞いたこともないじゃないですか〜。

そしたらそのユーゴスラビア人、急に真面目な顔して、「いやオターキ…サーメ人はコーヒーに塩を入れるんだ…」って教えてくれました。

サーメの人は、1年の多くを雪と過ごしますし、伝統的に遊牧生活をしていたので、外での生活が多く、集団で暮らすよりも、自然の中で少数で過ごすことにも慣れています。

そして、そんな厳しい移動の暮らしの中では、昔も今も、一杯のコーヒーは貴重なひと時です。

夏はともかく、冬になるとコーヒーのお湯は雪を溶かして沸かしていたそうですけど、溶けた雪の水は、地下水とは違って塩分がないので、サーメ人は塩分を取るために、コーヒーを飲む時に手の平に塩を乗せて、それを舐めながらコーヒーを飲んだそうです。

それと…北の方の人…特にサーメ人は、コーヒーを皿で飲むという習慣もあったらしい。

コニーを煮て飲むと熱いので、皿に落として冷まして飲むってことらしいですけど…

こうして考えると、塩を舐めながらコーヒーを飲むというのも真実味はありますね。

砂糖にしても、一般的にはサラサラとした砂糖をコーヒーに入れるというのが普通ですけど、北の方の人は、カチカチに硬い固形の砂糖を口に含んで、コーヒーを口に含んで、砂糖を溶かしながら飲むという飲み方する人が今でもいます。

そんな風に、サーメ人にとってはコーヒーも大事なので、得意な工芸技術を使って、独特な砂糖入れも作っちゃう。

コーヒーのカップにしても、個性があります。

冬の長くて暗い夜には、コーヒータイムも幻想的になるし…

みんなが集まる時には、ラップ小屋と焚き火と昔話が夜の集いの憩いのひと時になるとか…

僕は、焚き火にしろサウナの火つけにしろ、火をじっと見るというのが好きなんですけど…

ある時ラップ小屋でサーメ人の長老と話をした時に、二人で焚き火の火をじっと見つめながら、その長老が…「焚き火の火って、ネアンデルタール人には今のテレビだったんだよな〜」と呟いたのを覚えてます。

僕は道産子で、小さい頃は…アイヌ人が火を囲んで昔話を語り部のように伝えたもんだ…というのを聞いて、すごくロマンを感じたもんですけど…

アイヌと同じように文字を持たなかったサーメ人にとっては、焚き火を囲みながらの昔話や民話の伝承が、現代人のテレビと同じような役割をしていたんでしょうね。

ただの「お茶を飲む」感じだけではない、スウェーデンの「フィーカ文化」…

コーヒーを飲むにも、いろんな飲む方があるんだと…夜のコーヒーを飲みながら…思いました。