最初のカルチュアショック
今から52年前の1969年に、当時のヒッピーブームに乗って日本から片道切符で渡欧して、目的地のスウェーデンに着いた頃の話ですが…
片道切符で日本を出るというと、暮らしていくためには行く先々で稼がなくてはならない…
ところが…所持金といえば、当時は海外旅行に300ドルしか持ち出しが出来なかった頃だったし、途中のロシアやフィンランドでも結構浪費したので、案の定、着いてから1週間もしないうちに、「とりあえずは、何か仕事を見つけなきゃ!」という状況になってしまいました。
その当時、スウェーデンには日本で知り合った友達がいたんですが、その人の父親が芸術家で「スウェーデンにはアーティスト職安というものがある」と言っていたことを思い出して、早速ギターを抱えてその職安に飛び込み、簡単なオーディションやインタビューの後、職員からは、「仕事を探してみるから、1週間ぐらいしたら戻って来なさい」と言われました。
仕事に必要な労働許可証はまだ持っていなかったんですが、学生ということだと人の紹介でも仕事が出来たという、古き良き時代の話ではあります。
そこで 「まあ様子を見て、もし駄目だったら皿洗いでもするか…」と一先ず安心して帰り、1週間後に話を聞きに行くと、なんと…「あ〜、申し訳ないけど、まだ結果は分からない」という返事です。
「え〜、マジっすか…」とは言わなかったけど、ちょとショックを受けながらも、「まぁ、そんなに甘いものではないんだ〜」と自分を戒めながら、どこか皿洗いの仕事でも探さなきゃいけないな…と思っていたところ、その職安の人から、「それで、この前来た時から、君自身は仕事見つけるのにどんなところ回ってみたの?」と逆に聞かれました。
「いや…、ここで探して貰えるということだったので、一応その様子を見てからと思って…自分では別に他のところを回ってはいません」と答えると、相手は僕の肩に優しく手を置いて…
「でも、それって自分のことなんでしょ? 自分でも探さなきゃ!」と笑いながら言うじゃないですか…
旧ソ連からヘルシンキを経由してストックホルムに入って1週間…ようやく北欧独特の建物の感じや人の様子にも慣れてきたという頃だったですけど…
その職安の係員の一言に、「あ~、ここは日本じゃないんだ!」と、まるで大人に諭された子どものように感じて…思わず赤面したものです。
自分のことは、自分でする…
僕の中学校の校訓は「明朗闊達、自主独立」というものだったし、「自分のことは自分でする」くらいのことは、日本人だって…誰でも知っているはずですよね。
でも、そうはいいながらも、人にものを頼んだら…その相手を尊重して、自分では勝手に動かないように心がけるのが「礼儀」というものだというのも、おそらくみんなどこかで教わったこともあるんじゃないかと思うんですよ…。
自分が勝手に動くと、頼んだ相手を信頼していないと思われるかもしれないし、頼まれた相手にしても、自分に頼んでおきながら勝手に動くのは失礼だと思うかもしれない。
まあ普通はそう考えて、「まずは結果を見てから動く」方が無難だし、「相手を立てる」ということにもなる。
結局のところ、人情という風土の中で、自分のことは自分でするということは当たり前としながらも、それが曖昧にされていることが多いんじゃないでしょうかね。
ところがスウェーデンでは、「自分のことは自分でする」というのは、「自分で責任を持つ」ということで、他人をあてにするということはしないもんです。
仕事をするにも学校を選ぶにも、自分の住処を見つけることも…何をするにも、自分で動かなければ、他は動いてはくれません。
ですから、「自分のことは自分でする」というのは、徹底して自分でしなければならないし、またそういうことは、小さい頃から…家庭でも学校でも社会からも教わるものです。
民生委員というものはいない国
ところで、最近になって日本に住んでいた頃、自宅に民生委員というのが訪ねてきたことがありました。
高齢者の年齢に達していた頃だから、住民登録を見て様子を見にきたらしい…。
「何か困っていることありませんか?」と尋ねられましたが、その時は別に困ったこともないので「何もありません」と答えましたけど、スウェーデンには、高齢者の自宅を訪ねて何か困ったことがあるかどうか聞きに来る民生委員のようなものは…いないんですよ。
もちろん、あれば便利なのかもしれないけど、ここでは誰もが「何か困ったこと」があれば、どこのどういうところに行って相談するかは分かっているんで自分で出かけて相談するし、誰かが訪ねて来て困ったことや悩みを聞いてくれるなんてことは期待もしていません。
困ってることがあれば自分で相談に行くし、他人から自分の困っていることをあれこれ詮索されたくない…っていうのがあるというか…
でも、
日本で、民生委員が高齢者の自宅を訪ねて「困ったことはないか?」と尋ねに回るというのは、地域の自治体のサービスが充実しているからかもしれないし、地域で自分の生活を心配してくれるサービスがあるということは、それは安心するし…ありがたいことかもしれない…。
なので、これは「どちらが良いか」という比較論ではないです。
一方で、
日本では他人の親切が、往々にして「ありがた迷惑」とか、時には「余計なお節介」とさえ感じることも多いのも事実ですよね…。
でも、そうは思っても相手の気持ちもわかるので、あえて「余計なお世話です」などとは言わずに、丁寧にお断りをし続けるという、これまた「礼儀を重んじる」という繊細な日本の文化です。
相手に黙ってお茶を注ぐのは…失礼!
ちなみに…ですが…
日本ではお客さんが来るとお茶を振る舞うことが多いですけど、時々茶碗のお茶が少なくなると、何も言わずに…そっとお茶を注いでくれることがありますよね。
お茶だけでなく、どこかで誰かとビールでも一緒に飲む時など、自分のグラスにビールが少なくなると…誰かしらがビールを注いでくれます。
そんな時は、「あ、どうも…」と言いながら、これは普通で…当然だと思っている。
でも、これがスウェーデンだと、自分が頼んでもいないのに他人が黙ってお茶やビールを注いでくれるなんてことは、まず少ない…というか、ほとんどないんですよね…。
自分のグラスは自分のもので、どんなペースで飲むかは自分が決めることであって、もし少なくなれば、自分の好きな時に自分で注ぐものです。
自分が頼んでもいないのに誰かが黙って自分の茶碗やグラスに注がれると、自分の領域に他人が無造作に入ってくるようなもので、あまりいい気がしない…だから…自分でもしない。
ただ、前にも言ったように、こういう比較というものは「どちらが良いか、正しいか」で判断するものでもないし、日本とスウェーデンは文化も違い、個人というものの意識も違います。
忖度するということ…
そういえば、日本では少し前から「忖度」という聞きなれない言葉が流行って、「今年の流行語」にノミネートされたというニュースもありましたが、考えてみれば、「忖度」というのは…「あの人は、きっとこう思っているだろう…」とか「あの人の気持ちを重んじて、何かをする…」という具合に、僕ら日本人の中では「当たり前」だった慣習で、どの世界でも誰でもやっていること…ある意味普通なことだったんじゃないか…とも思ってる人も多いんじゃないですかね…。
「人の心中をおしはかる」とか「心配りをする」とか…
日本の美徳とも言える…良い響きじゃないですか…
昔から慣習としてあって、その文字さえあまり知られてないほど普通だった「忖度」ということが、いざ政治家や役人とかの間で起こると問題になるということ…スウェーデン在住日本人の僕から見ると、「何で今さら…」とか「今までみんなが、どこでもそうやってきたんじゃないの?」と、なぜにそう騒ぐのか不思議に感じたこともありましたが…
でも、権力を持つ人とか役職の高い人に忖度してルールを無視するということになれば、他の人には不公平になるし、これが「平等と公平」を重んじるスウェーデンであれば通用しないというのも確かではあります。
考えてみると…そんな政局の出来事のおかげで、日本でも「自分の責任」とか「個人の領域」とかいうものを改めて考える機会になったのではないかと思ったものです。
とにかく、スウェーデンに来てから1週間目に…
「自分のことは自分でする」ということ、つまり自分のことは自分に責任があるという至極単純な、しかも最も基本的なことの重さを初めて味わい…
「自立とは、こういうことなんだ…」と、日本人である自分が持っていた観念の曖昧さを指摘されたことに、思わず赤面をしてしまったという話…
スウェーデンに来て、最初に味わったカルチュアショックでもありました。