日本公演ツアー(その3)

⚫︎EKO公演の影響

EKOの日本公演は、その後1994年、96年にもそれぞれ全国縦断ツアーの形で行われました。

94年には7週間という長い滞在で、合計18ヶ所での公演、また96年には3週間で8ヶ所での公演が行われました。
3回の全国公演で、合計38ヶ所での公演が行われたことになります。

それぞれのツアーにはそれなりの特徴があり、また日本の障害者福祉に関わる状況も毎回来る度に前向きに変わってきましたが、第1回目の全国公演の時と比べると、共演するグループの演奏の種類が少しずつ変わってきました。
第2回目からは、僕らと同じような形で演奏するバンドがだんだんと増えてきたのです。

これは主催者の方のコーディネートによるのかもしれませんが、EKOの第一回公演の後に出来たグループとも共演しました。
それらのグループの全部ではないにしろ、そのいくつかは、それまでのEKOの公演に刺激を受けてバンドが結成されたということです。

音楽グループとしてのEKOに対する評価は、様々でした。

障害者と健常者が同じ次元で演奏するということでの好意的な評価もあれば、ギターやベース、ドラムというメインの楽器を演奏しているのはリーダーで、障害者のメンバーは打楽器などを演奏していると批判的に見る人もいました。

また、EKOのあり方を音楽療法という範疇で見る人もいれば、健康そうな障害者が舞台で演奏するのは音楽療法ではない、という人もいました。

それぞれの評価は、評価する人の立場や、またその人なりの福祉観、音楽療法観を表しているということであろうし、評価はいろいろあるのが当然です。

しかし、障害を持つ人が自由に伸び伸びと演奏することを目指したグループがあちこちで生まれたことを考えると、それが音楽療法であろうがなかろうが、障害を持つ人が音楽を楽しむことで自分を発揮し周りと共感を分かち合うということへの理解が深まり、またそういう場が増えてきたことも間違いないのではないかと思います。

総体的に日本でのEKO公演に対する受け取り方を考えてみると、日本でのリハビリ的な考え方や姿勢の中で、障害を持つメンバーそれぞれがその個性を表現して、まるで「障害を持っていて、どこがおかしい!」とでもいうように、自分に誇りを持った姿を観客に曝け出すEKOのメンバーの姿が、特に障害者福祉に携わる人たちの間で、新鮮なインパクトになったのではないかと思うのです。

EKOは、98年にもう一度日本での公演を行いました。

その時は、EKOの公演というのではなく、それまでEKOの公演で共演したグループや、またその後に出来たグループがいくつか集まり、「響き合いのフェスティバル」という舞台芸術のフェスティバルが行われたのですが、EKOは客演ということで参加しました。

出演したのは、音楽や舞踏、また和太鼓といういろいろなジャンルのグループで、それぞれ全国から集まってきたのです。

どのグループも非常に高いレベルのパフォーマンスを披露し、見ていた僕らも感嘆の声を上げたものでした。

⚫︎音楽療法か音楽活動か?

特に日本での公演の際によく聞かれた質問の一つに、EKOは音楽療法のグループであるのか、それとも音楽活動をするグループなのかということがありました。

この話題は、特に日本公演の時に、いろいろな形で取り上げられました。

おそらく、僕の肩書きの一つに音楽療法士というものがあったのと、僕自身、EKOは音楽療法のセッションから出発したと紹介したことにもよると思いますが、その他にも、ちょうど僕らが最初に公演を行なった90年代の初め頃には、日本でも音楽療法という概念が広がりつつあって、音楽療法に対する関心が深まっていたという背景があるのではないかと思われます。

各地でマスコミの取材を受けた時は、ほとんどのジャーナリストが音楽療法について質問をしていたし、中には、メンバーの何人かに「音楽をやってから、自分はどう変わりましたか?」などと聞いていたアナウンサーもいました。

その質問がなされると、カメラの周りにいた関係者は真剣な顔をしてメンバーを見つめ、まるで何か神託を伺うかのようにメンバーの言葉を待っていたようにも見えました。

聞かれたメンバーたちは、それぞれ「何も変わってない」と答え、そうすると質問したアナウンサーや周りの関係者は、納得いかないような顔つきをしていたものです。

僕自身は、カメラに向かっていろいろ説明するわけにもいかず、傍で苦笑するのがせいぜいでした。

どだい、自分の状況を把握して、音楽を始める時と今の自分を比べて、音楽をすることによってどれほど自分に成長があったかを論理的に説明出来るのなら、知的障害というものの概念を考え直さなければならないでしょう。

この他にも、「健康そうな障害者が舞台で演奏するのは、音楽療法といえるかどうか」といった声が聞こえたり、「EKOのあり方は、私たちの考える音楽療法とは違う」と公言した音楽療法研究所があったりとか、とかく話題になったものです。

しかし不思議なことに、EKOのあり方やセッションの方法などについて、僕に聞いてきた人も少ないのです。
ほとんどの場合、僕の肩書きとEKOの演奏を見て、それぞれの音楽療法論に当てはめて、それが音楽療法であるか否かを考えていたようでもありました。

もちろん、EKOのあり方や舞台での姿を音楽療法と捉えている人も少なくありませんでした。

しかし、そういう人は「音楽療法で、メンバーはどう変わりましたか」とは聞かないし、またEKOの何がセラピーなのかも、あえて聞きはしません。

ここで念のために断っておく必要がありますが、僕自身、単に舞台で演奏することを目的とした音楽活動と、対象になる人の状況を把握して、より良い状況になるように意図的に働きかける音楽療法の活動は、それぞれ違うものであるという認識を持っています。

舞台で演奏するのは楽しいから、そこで演奏するために集まって音楽をするという場合には、楽しく演奏することが目的であり、その方法もそれぞれが快適に感じて演奏することに満足するものであれば、どんな方法でも良いわけです。
どういうことをするのかは、みんなで決めるという方法もあるでしょう。

これに対して音楽療法の場合は、セラピストあるいはリーダーになる人が、グループや参加するメンバーの状況に対応して、その状況がより快適な状況になる方向性を見つけて、そこに到達するように音楽を意図的に使い、出来るだけその目標に近づくようにするものである、と僕は認識しています。

なので、舞台で演奏するという形からだけでは、それが単なる音楽活動なのか、あるいは音楽療法といえるものなのかを判断することは難しいものです。

それは、その舞台に上がるまでの練習や活動をリードしている人の考え方や方法などの中身によるもので、舞台での演奏という、ある限られた時間の中で見ているだけでは中々わからないものです。

EKOのあり方を音楽療法として捉えた人たちの多くは、舞台で演奏するという形を見ていたのではなく、そこにあった姿勢や関わり方を見ていたのだろうと思います。

⚫︎スウェーデンでは…

EKOの活動が音楽療法かそれとも音楽活動かという問いは、実際の話日本でしか聞いたことがありません。

EKOが訪れた他の国では、もしかすると音楽療法という概念がそれほど広がってなかったのかもしれませんが、そういう質問を受けたことは記憶にないのです。

スウェーデン国内では、デイセンターで音楽をしていない時にはどういう作業をしているのかとはよく聞かれましたが、それが音楽療法であるかないかという議論は今まで聞いたこともありません。

おそらく、音楽というのはそれ自体が療法的な要素を持っていて、それを使うことは障害者のハビリテーションに有効であることは、少なくとも障害者福祉に関わる者であれば大方が共通の理解を持っているので、あえて音楽を使う上での意味などの説明付けを求められることがないということでしょう。

またスウェーデンでは、リトミックが、それをどう呼ぶかは別にしてほとんどの幼稚園で行われていますし、また特別教育の中でも、以前から「社会的、教育的療法」の流れの中で、音楽やリトミックというものが絵画や他の芸術分野と一緒に広く使われていることも挙げられます。

知的な障害を持つ人が音楽活動に参加する場合は、自分のやっていることが音楽療法であるという認識はないし、自分が何かの意味で変わるために音楽をしているとは、まずほとんどは考えていません。

僕自身、彼らを変えるために音楽療法をやっているわけではないのです。

前にハビリテーションということを説明しましたが、障害を持つ人が社会参画していくために彼らを変えるのではなく、彼らが自分というものを認識して、自分であることに自信を持って自分を表現し、前向きの形で社会参画が出来るような状況を作り出すための音楽活動なのです。

⚫︎すべて、音楽の活動

ここで、デイセンターで音楽を作業として行う場合の、いろいろな捉え方を話してみたいと思います。

デイセンターなどでの音楽活動の場合、音楽を担当する指導員は学習連盟からサークル指導員として派遣されるという話は前にも述べました。

学習連盟が行うサークル学習は、いわゆる生涯教育と呼ばれるもので、つまり学習することが目的です。

一方、デイセンターの役割は障害を持つ人の日中活動を保証するものですから、彼ら自身の日常生活における活動を作業として行う場所です。

そこで、音楽セラピストである僕がデイセンターで音楽セラピーを行うわけですが、僕を派遣する学習連盟では、学習の時間に「セラピー」をするというのはその趣旨から外れていますし、またデイセンターとしても、日中活動を行う場所で作業の時間にセラピーを行うということを公言するわけにもいきません。

なぜなら、セラピーとは、個人個人の状況に対し専門家が個人的に対応するもので、それをデイセンターでの仕事として行ったり、また学習として行うものではないからです。

ところが、学習連盟でもデイセンター側でも、僕の行っているセッションは音楽療法であるという認識は持っているのです。

複雑に聞こえるかもしれませんが、音楽というものは、それ自体が療法的な要素を持っているものであり、単に障害を持つ人と音楽をすることが音楽療法でもなければ、あるいはそれらの方法に特別な名前を付ける必要があるわけでもありません。

学習と呼ぼうが作業と位置づけようが、あるいはそれを音楽療法と言おうが、結果として対象となる障害を持つ人が生き生きとして、より快適な生活が出来ることにつながるのであれば、それを何と呼ぶかということは、あまり意味はありません。

加えて、それが音楽療法であるかないかを決定するのは、本来は、それを受けている人であるはずです。

どんなに立派な理論を持っていてもスキルが優れていても、受けている人がそれによって生き生きとして快適に思わなければ、またそれによって前に進む力が湧くものでなければ、それは療法とはなり得ないのではないだろうか…。

また、それを音楽療法と呼ぶのであれば、そのやり方が療法的であるばかりでなく、目的や意図とか手法、さらに対象になる人が前に向かって進む道筋を説明出来なければならないと、僕は思うのです。

そして、「療法か活動か…」、これも厳密にいえばおかしい問いかけではないでしょうか…。

音楽療法といえども、あるいは音楽教育にしろリクレーションにしろ、音楽を使っての活動であるならば、要するに、すべては音楽の活動なのではないかと僕は思うのです。

少なくとも、スウェーデン語的には、そういうことです。

⚫︎決めるのは自分 本人とゴードマン

マリアは、自分の希望であった「パーソナルアシスタント」を雇って、アパートで自立生活をしています。

それは彼女が望んだことであり、彼女の意思によって彼女自身が決定したことです。

「障害者ケア」の基本的な考え方として、社会は障害を持つ人が自分の意思で決めたことが実現出来るように支援する、ということがあります。

しかし、誰もが自分の意思で自分のことを決めることが出来るというものでもないし、特に障害を持っていると、その障害のためにそれが難しいことが多いものです。

また、自分で決めたことや自分の意思が通らない時に、それを申し立てたり、物事を前向きに推し進めていくことも難しいものです。

そのために、障害を持つ人には「ゴードマン」という支援制度があります。

これは、その人の代理人として、その人を代弁したりその人の権利を護る人を、申請により裁判所が認定していく制度です。

簡単に説明すると、例えばEKOのメンバーが外国へツアーに行くとか、あるいはグループホーム全員で外国に行くという場合には、ある障害者が飛行機というものや外国ということを理解してない場合には、「行く、行かない」の答えはゴードマンがするということです。

マリアの場合は、大概のことは自分で決められますが、例えばお金などの管理は難しいし、また、もし彼女の意思が通らない場合に、いろいろな方法でそれが可能になるように自分で進めていくことは難しいわけです。

なので、マリアもゴードマンを持っているし、ゴードマンはマリアの利益を擁護する者として、マリアにとってのベストを考えなければなりません。

市自治体(コミューン)は、その人に知的障害があるとゴードマンをつけなければならない義務を負っています。
もちろん本人には経済的な負担は全くかからず、無料です。

とにかく、そんなわけでヤンネもアンダッシュもゴードマンを持っており、他の多くがそうであるように、二人のゴードマンはそれぞれ彼らのお母さんです。

このように、家族や親というものは一番本人に近いので、ゴードマンになっている人が多いです。

しかし、家族とゴードマンというのはそれぞれ性格が違うものなので、親であることによって子どもの決定にネガティブな影響が出てはいけないし、そのことは裁判所から認定される時にも念を押されます。

ヤンネとアンダッシュは小さい時から同じ地区で育ち、幼稚園も特別支援学校もデイセンターでも一緒でした。

エクトルプ・デイセンターに通っていた頃はそれぞれ両親の自宅に住んでいましたが、EKOデイセンターに移ってからは、マリアと同じグループホームに住むことになりました。

そこで、デイセンターに通うのに、バスを乗り継いで通うか、それとも交通サービスにするかということで議論になりました。

ヤンネとアンダッシュはバスで通いたいと言うし、お母さんたちは、彼ら二人だけでバスを乗り継ぐのは無理だと言う。

またデイセンター側は、ヤンネとアンダッシュが出来るかもしれないから、やらせてみた方が良いのではないかという意見でした。

結果的には、その二人やお母さん方、それにグループホームとデイセンターという全部が話し合って、二人が慣れるまでグループホームの職員が付き添いでバスに乗り、慣れたのを見届けてから自分たちで通うということになりました。

お母さんというものは、子どもの可能性に自信が持てない場合も多いのですが、ゴードマンであったとしても、やはり本人の意思に勝るものはないのです。

⚫︎メイキャップとサウナ

EKOデイセンターのスタジオには、稽古場としてのステージやちょっとした客席になる空間の他に、ステージに面して録音スタジオや、またメイキャップの部屋があります。

演奏会がある時には、会場にメイクや衣装替えの場所があればそこで行いますが、そういう楽屋的なものがない場合など、スタジオにあるメイク室で衣装に着替えたりメイクをして出かけます。

もちろん、男性はあまりメイクをしませんし、洋服を着替えるのも手軽なので、メイク室の利用者は女性のメンバーが多いです。

このメイク室はそんな便宜上のこともあって特別に設計したのですが、実はもう少し違う思惑がありました。
実際には、メイクなしで演奏することも結構あったのです。

思惑というのは、一般的に知的障害を持っている人というのは、自分がどう見えるかについて概して無頓着なことが多いので、自分の姿というものにもう少し関心が持てたら…という思いがありました。

メンバーの中でも、アンやスッシーなどはファッション雑誌を見るのが好きで、時々「うわー、この女性素敵だ!」などと感嘆することも多いのですが、それはまったく自分とは関わりがないと思っているようでもありました。
あるいは、自分はそうなれないと思っていたのかもしれません。

そんなこともあって、演奏の時にはなるべくメイクをするようにしたし、またデイセンターの日課にも、女性メンバーにはスタッフのアニカやビルギッタ、ギュードルンドなどとメイクする時間を組み入れました。

しばらくすると、アンはデイセンターに化粧をして通ってくるようになりました。
毎日ではないですが、時折そんな気分になると、自分のグループホームを出る前に化粧をしてくるらしい。
そう思って見ると、その頃から彼女の着ている服にもセンスが出てきたように思います。
単に自分の持っている良い服を着るというだけではなく、流行のファッションものも買ってくるようになったらしい。

ネッタンは、特に背が高いし脚は特別長いです。

自分では言いませんが、自分の姿が普通とはどこか違うこともわかっているようでした。
なので、メイクをし始めの頃は、「したって、しょうがない」みたいなことを言っていたようです。

ところが、彼女がいつも行っている障害者向けのFUBダンスに行くと、周りから「見て、EKOのネッタンだ!」と言われはじめて、彼女もメイクに関心を持ったらしい。

それからは、FUBダンスに行く時にはメイクをするようになり、周りから「ネッタンだ!」という声が聞こえると、手で髪をすくう仕草をするようになったということです。

EKOデイセンターには、この他にサウナ室があります。
フィンランド式に、熱い石に水をかける本格的なものです。

このサウナも、やはり日程の中に男性、女性に分けて組み込まれていて、作業とか活動というよりは、むしろリラックスの時間として過ごしました。

サウナは熱すぎてあまり好きでないというメンバーももちろんいますが、男性陣ではペーテルや、ヤンネとアンダッシュのコンビが愛用者です。

そしてスタッフのペーテルと一緒に入り、「身体はやっぱり手入れをしないと…」みたいな感じで、衛生や身体を鍛えるようなことも話すのですが、「男同士」の話をすることも多い…。

彼らが「男同士」の話でどんな話をしているのか詳しくは分かりませんが、どうせ、僕なんかも他の男同士で話す内容とはそれほど変わりはないと思っているので、あまり聞いたことはありません。

でも、そのせいもあってか、日本公演も回が増えるようになると、ヤンネやアンダッシュと話をすると、「カッコいい」日本の女性の話が出ることも多くなりました。

今までは、例えば見学などで人が来ても、特に女性に目が向くということもなく、職員は職員、お客さんはお客さんであったのが、しばらくすると、女性のことは「可愛い」とか「カッコいい」とかの評価をするようになってきました。

メイク室もサウナ室も、元々そのような意味で設けたわけではないし、デイセンターの日課としては贅沢に聞こえるかもしれませんが、世間での「君と僕」の関係があって自然に暮らしていくには、音楽ばかりでなく、そんな「普通のこと」も大事だろうと思うのです。

⚫︎そして、今…

僕がEKOデイセンターを依願退職してから、すでに20年という時が経ってしまいました。

その間、EKOのスタッフやメンバーにも変化があり、全部で七人いた当時のスタッフはみんな退職して、現在はまったく別の職員がいます。

残念ではありますが、ニッセやネッタン、ヤンネなど、すでに亡くなってしまったメンバーも数人いますし、スタッフのビルギッタも相当前に他界して、現在でも残っているのはアンダッシュやペーテルなどほんの数人のメンバーだけで、デイセンターの利用者もすっかり変わってしまいました。

スタジオや録音スタジオも改造したとはいえまだ残っていますが、隣接していた企業の空き部屋もコミューンが引き継いでデイセンターに組み入れたので、場所も随分と広くなりました。

音楽の時間はそれなりに続けているようですが、外部での演奏活動はまったくないということです。

演奏活動というものは、デイセンターの運営とは違った要素があり、僕が退職した時点で、それを継続することが出来なかったようです。
そのため、僕が退職すると、ヤンネもアンダッシュも練習することさえ止めてしまったらしいのですが、それは本当に残念に思っています。

そして、音楽というものはその時その時の心や感情の交換ですから、絵画や文学のように、後からも鑑賞できるものでもなく、CDやビデオなどに残されたものを辿るしか出来ないという性質なので、それもまた残念なことです。

しかし、現状や環境は変わったかもしれませんが、今までEKOが歩んだ足跡は辿ることが出来るし、苦労や感動の体験は、当時のメンバーやスタッフにとっても、それぞれ歩んでいく上で、これからも心の中に残っているのだろうと思います。

今でも、特にアンダッシュは近くに住んでいることもあって、会う時にはいつのように話をしていますし、昔話にも花が咲きます。

みんな、それぞれ「君と僕」という関係であったし、それはいつまでも変わることはありません。

音楽という繋がりがそうさせているのかもしれないし、世界を一緒に回ったという体験からかもしれないし、あるいは10年以上も一緒に行動した年輪なのかもしれません。

とにかく、僕らは音楽をすることでひとつになった、かけがいのない「仲間」でした。

日本公演ツアー(その2)

⚫︎歓迎会、仕込み、演奏、打ち上げ、そして、また…

「うわ〜っ、あんなに旗がいっぱい!」、新幹線である駅に着いて改札口を出ると、みんな一斉に声をあげました。

改札口には、日本とスウェーデンの国旗を持った一団がいて、僕らの姿を見ると、「うわ〜、来た〜!」と言いながら、持っていた手製の旗を振って僕らを出迎えました。

その数、50人か60人、もしかしたら100人近かっただろうか…。
笑顔の波の前を、これまた笑顔を返しながら通り、僕らは待っていたバスに乗り込み、ホテルに向かいました。

公演地すべてがそうではなかったにしろ、多くの場合そんな風景が僕らを迎えました。
そして、ホテルに着いて一休みすると、歓迎会の会場に向かうのが常でした。

中にはホテルの中に会場があることもありましたが、とにかく、どこでも歓迎会の会場に着いてまず飛び込んでくるのは、テーブルの上に盛られたご馳走の山です。

一通りの式を終えると「乾杯」になり、僕らは文字通りご馳走に舌鼓を打ちました。
そして、あちこちで交流が始まります。

時には地元のアトラクションもあり、特に日本舞踊やその地方の民謡などは、EKOのみんなも目の前に繰り広がられる光景に見とれていました。

「お箸は使える?」とよく聞かれましたが、両手に杯を一本ずつ持ったり、箸でつまむのは面倒くさいとばかりに料理に突き刺して、それでも結構満足気に食べているメンバーの様子を見て、接待する方も、珍しい箸の使い方に感心していたこともありました。

次の日は、公演です。
開演は夕方過ぎというのが普通でしたが、機材の仕込みは午前中から行われます。
EKOはリハーサルというものはしない方針なので、仕込みには音楽リーダーだけが出かけ、メンバーは他のスタッフとホテルに残るのが常でした。
今まで演奏は数え切れないくらいやっているし、また本番の時にこそエネルギーを出し切らないといけないので、いつもぶっつけ本番でした。
その代わり、音響や照明係の人のために、リーダーはそれらのスタッフと時間をかけて入念に仕込みを行いました。

そして、本番です。

公演の時間が迫ってくると、一旦戻ったリーダーも他のメンバーやスタッフと一緒に会場に入り、用意された楽屋で舞台衣装に着替え、楽器の調子を合わせて開演を待ちました。

演奏の様子は省略するとして、とにかく汗だくになって全員が楽屋に戻ると、急いで着替えをし、またバスに乗り、今度は打ち上げの会場に向かいます。

打ち上げの会場には、今まで何ヶ月も公演の準備をして、公演が上手くいくように不安を抱えながら一所懸命に動き回り、ようやくそれが報いられた大勢の人が僕らの来るのを待ち構えていて、お互いが出会うと「イェー!」「良かったー!」「ご苦労さまー!」の声があちこちで響きわたり、ビールの栓が抜かれ、ご馳走に飛びつき、これまた汗だくの交流が始まります。

そして、夜も遅くなる頃、僕らはまたバスでホテルに向かいます。
次の日は、移動です。

次の日の打ち合わせのために主催者の人を交えてのミーティング、その後荷造りをして、洗濯物があればそれも片付けて…。
翌日は、早くから新幹線です。

公演の間中、これが実に1ヶ月以上も続いたわけですが、そうすると、大体二日おきにこれが繰り返されたことになります。
どこでも歓迎会は素晴らしかったし、公演も成功裡に終わり、打ち上げは何回やっても楽しいものでした。

しかし、何回も同じことをしていると慣れが出てくるのもまた自然なことで、公演先に移動をする度に、これからあることは予測されるのです。
「またか!」と思う者がいてもおかしくはないのですが、全員、どこへ行ってもまるでそこが初めての体験であるように振舞いました。

行く先々では出会う人も違い、歓迎会の様子や演奏の感じももちろん違うので新鮮に感じたのかもしれませんが、そればかりではありません。
どこでも様子は違いましたが、僕らを待っている気持ちや、公演にかける期待感は、どこでも同じで熱烈でした。

僕らは行く先々で同じことをしていたとしても、その地域の人にしてみれば、初めてEKOに出会うわけです。
そして、その熱意には僕らも同じ気持ちで接しなければいけません。

それが、今まで苦労をして公演を支えた人たちへのお返しであり、一所懸命演奏することが、僕らからのお礼でした。
それは、EKOのメンバー全員が、行く先々で体験として感じているものでした。

⚫︎表敬訪問とプレゼント贈呈役

日本公演では、訪問先で「表敬訪問」というものがあちこちで行われました。
地元の主催者や福祉関係者にとって、EKOと一緒に知事や市長などを訪問することは、行政に地域での福祉をアピールする良い機会であったのでしょう。

表敬訪問となると、よくプレゼントの交換というものがあります。
お互いお土産を用意しているのですが、僕らもデイセンターのグッズとかスウェーデンからのお土産を渡すことになって、さて、誰がプレゼントを渡す役をするのかとメンバーに聞きました。
そうすると、真っ先に手を挙げるのが、あの恥ずかしがり屋のアンダッシュです。

彼は、勿体ぶった仕草でプレゼントを渡すと、握手を求めることも忘れませんでした。
お互いがプレゼントを交換すると、居合わせた地元の新聞記者やカメラマンがカメラを向け、テレビ局の人はカメラやマイクも突き出します。
そうするとアンダッシュはカメラに向かい、茶目っ気たっぷりにVサインをしたものです。
公演を通して、彼は表敬訪問の時には、僕らの顔となりました。

アンダッシュは、人一倍恥ずかしがり屋でした。

彼は人と喋ることは嫌いではないし、むしろ話ができると思う相手には、前日見たテレビのニュースのことを喋ったり、お気に入りのサッカークラブの活躍を話すのが好きです。

しかし、言葉が容易に出てこないし、相手が彼の話をよく理解してないことも知っていました。

なので、話の途中で相手が確かめるように何かを聞くと、途端に喋るのを止め、持っている紙袋を頭から被って、話を続けることを拒むことがよくありました。

音楽やダンスが好きな彼は、デイセンターで音楽のセッションがある時は、部屋にはいるのですが話の中には中々入ろうとはせず、かといって部屋から出るわけでもなく、壁沿いに歩きながら、いつもセッションには注目していました。

音楽が好きなことは自他共に認めるところでしたので、EKOを結成して演奏を始めるようになると彼を誘い、彼も喜んでついてきました。
そして、EKOのメンバーになってからは、すぐさま演奏活動にも積極的に参加するようになったのです。

大阪の高速道路をバスで走っていた時、アンダッシュは僕に、「彼はどこにいる?」と聞きました。

彼とは誰のことかとしばらく考えると、それより半年前に、日本から障害者交流の企画で、あるダウン症の男性が彼の実家にホームステイしたことを思い出しました。
「彼のこと?」と聞くと、そうだと言います。

その男性は東京に住んでいて、実は、お母さんからはEKOの日本公演で東京に来る際には、是非アンダッシュとも会いたいという連絡も入っていたのですが、その時はすぐには思い出せなかったのです。

東京の公演はまだ先のことで、僕らは日本に着いて間もなく、おまけにそこは大阪でした。
アンダッシュは、もちろん東京という言葉は知っていましたが、大阪も東京も区別はつきません。
そもそも、スウェーデン人にとっては、大阪も東京もとてつもなく巨大な都市です。
とにかく、ここは東京でなく大阪という別の都会であることを説明して、彼も分かったようでした。

やがて東京に来ると、それまでに連絡もあって、その男性とお母さんがホテルまでアンダッシュに会いに来ました。

そして、時間があれば二時間くらい、アンダッシュを自宅に招待したいと言うのです。
僕は、それは構わないけど、僕は忙しいので付いて行けないと言いました。

するとお母さんは、アンダッシュ一人でも良いから、どうしてもアンダッシュを自宅に連れて行きたいと言います。
そこで僕がアンダッシュに聞くと、彼は行くと答えました。

「一人で行ったら、言葉も分からないよ。みんなスウェーデン語は話さないから」と言うと、アンダッシュは「いいよ、行く」と言うのです。
それで、三人はタクシーに乗って出かけ、夕方にはまた三人で戻ってきました。

僕は、まったく言葉の分からない環境でアンダッシュがどんな風だったのか知りたくて、お母さんに聞くと、「楽しかったですよー。身振り手振りで話して、コタツに入ったり、テレビを一緒に見たり…」と、本当に嬉しそうに報告をしました。

僕は、本当にアンダッシュがどう感じたのか知りたくて、「どうだった?言葉、通じた?」と聞くと、アンダッシュは何をつまらないことを聞くのかと言う顔をして、「OK!」と肩をすくめただけでした。

「あの、恥ずかしがり屋のアンダッシュが?」と思いましたが、プレゼント贈呈役のことも思い出し、彼の変わりように驚いたものです。

⚫︎不安と疲れで…それでもリズムを…

「ネッタンのブルース」のネッタンは、それまで情緒的に不安定だったことは前にも述べました。

時々情緒が不安定になるのは仕方のないことですが、グループで活動するようになってからは、少しずつその不安を自分なりにコントロールすることも出来るようになってきました。

デイセンターとグループホームとの連携も上手くいって、お互いが相談しながら彼女の日常を組み立てて、またその都度彼女にも説明をし、なるべく変化というものを少なくしていきました。

それに加えて、デイセンターではスタッフのアニカが特別に彼女に関わり、何かあると慰めたり励ましたりしてネッタンのサポートをする役目をするようになりました。

今まで、「人は自分の話を聞きたがらない」ということは知りながら、それでも「これから先」が見えなくて不安なために、どうしても人に喋らずにいられなかった彼女です。
そして、人に触れて安心するためには喋るしか方法がなく、それでも駄目だとなれば自分を傷つけなければならなかったネッタンには、音楽でそれを発散することや、アニカの存在は大きかったのです。

演奏の前には、その後にタクシーはちゃんと来るのか、グループホームに遅く帰ると、いつもの職員はいるのか、今日の演奏は何時に終わるのか、終わったらすぐ帰れるのか、全て不安の対象になり、その全部をアニカに聞くのです。
アニカは、いつも辛抱強く対応していました。

1日だけの演奏という場合だとその日が不安になるだけですが、ツアーともなれば、大体日常そのものが不規則の連続です。

時間的には、朝起きて移動して、演奏して泊まって…というのが規則的に起こるとしても、場所も出会う人も毎回違います。
不安材料はいつもの何倍も何十倍もあるのに、それでもネッタンはツアーには行くと言って聞きませんでした。

EKOの演奏では、ネッタンは司会役もします。
曲の順序は、それはもう変えられると絶対に困るというもので、そのためにネッタンも司会者役を人には譲りたくありません。
外国でスウエーデン語は通じないことだって、構っていられないのです。

ところが、スウェーデンではネッタンの司会で事足りて、ベース弾きのペーテルが補足するだけでよいとしても、外国だとペーテルが英語でイニシアティブをとることが多いので、不満が溜まることがあるのかもしれません。

ツアーは長いし、外国です。
不安材料はますます増えるし、日本ではそれが5週間も、時には7週間ということもあったので、終わりがないほど長くも感じます。

そういう状況があるので、舞台では、僕はいつもネッタンの横に立っています。
ボッセやヤンネもいるし、車椅子のマリアも一番端にいるので僕の守備範囲というのも狭くはありませんが、僕がどう動こうと誰と関わり合おうと、意識はネッタンにいっていることが多いものです。
ネッタンも、演奏中に何か不安になると僕にサインを送るし、僕も演奏しながらそれに返すようにしています。

ところが、特に日本公演のような大きな舞台だと、舞台の上だけ気にしてるわけにもいきません。
舞台の前には、時には2000を越す目があるし、目の前には何十人も踊っていて、ヤンネやアンダッシュと前に出てロックンロールする場合も結構多いものです。

ある時、そんなパフォーマンスをしていて、ふと振り返ってネッタンを見ると、彼女は腰を屈めてマイクの前で深々とお辞儀をしたような格好をしていました。

彼女が何かに不安なだけでなく、前の晩に眠れなくて崩れるような疲れを感じている時によく見る姿勢です。
黙っていれば、そのまま倒れてしまうかもしれませんでした。

「まずい!」と一瞬思い、演奏を続けながら舞台の前から戻ってネッタンの横に行き、ネッタンと何かしているような格好をしながら、僕も腰を屈めて低い姿勢を取り、ネッタンの表情がよく見えるようにしました。
確かに、凄く疲れた表情でした。

そして、その姿勢のままネッタンの長い腕がぶら下がっている先を見ると、床すれすれにまで下がったネッタンの両手の指が、微かな動きで拍子をとっているのが見えたのです。
両手が合わさるようにだらりと下がった腕の先で、ほとんど見えないような動きでしたが、両手の人差し指を合わせて、確かにリズムを取っているのです。

その直前にネッタンが何を考えどう感じていたのかはわかりません。
僕は、ヤンネやアンダッシュと舞台の前で、観客と「イェー!」とロックンロールしていたのです。

でもネッタンは、きっと体が崩れ落ちそうになるくらいの不安と疲労の中で、一所懸命演奏することで自分をコントロールしようとしていたのかもしれません。

「そんなに疲れて、不安だったのか…」と思いながら、僕は床まで屈んだその格好のまま、ネッタンの指の動きに合わせてギターの弦を爪弾きました。

その時、僕の頭には、舞台も日本も、観客もありませんでした。
ネッタンの指に合わせて、「終わりまで頑張ろうな!」と、一所懸命音を返しているだけでした。

次は、「EKO日本公演ツアー(その3)」に続きます…