⚫︎イェー!ロックバンドだ!
「みんな、凄いロックじゃない!」
「まるでロックバンドみたいだよ!」
「ロックバンド、やろうか!」
1986年の秋も深まってきたある日、いつものセッションも終わりに近づくと、僕はメンバーたちにそう声をかけました。
それまで一年ほどセッションをやってきましたが、その日の演奏はいつになく活気があって、曲の終わりも「ピタッ」と決まって、みんな心地よい余韻に浸っていました。
「イェー!ロックバンドだー!イェー!」と、サポート職員のウッフェと肩を組みながらメンバーのヤン・オロフが叫ぶと、他のメンバーの多くもガッツポーズをして賛同しました。
普段は恥ずかしがり屋で、コンガスを叩くとき以外はあまり積極的な行動を取らないアンダッシュまでもが、急に彼の知っているロックバンドの名前を次々に並べ立てたほどです。
「OK、じゃあ、ロックバンドみたいにやってみようか!」と僕が言って、今まで座っていた椅子から立ち上がりギターを肩から吊るすと、みんな一斉に立ち上がり、さっきの「ピタッ」と決まった曲をもう一度繰り返しました。
ダンスが好きなグンとスッシーは、みんなの前に進み出ると、なんと…競うように腰を振り出すじゃないですか…。
いつもは情緒が不安定で、ウッフェとしきりに肩を組みたがるヤン・オロフは、見ると、両手にタンバリンを持って、口から泡を飛ばして叫ぶように歌っていました。
元ロック歌手だった職員のウッフェは、そんなヤン・オロフをニコニコと見ながら、「イェー、ヤン・オロフ、カモーン!」などと英語を交えて、これまた昔とった杵柄で、歌い慣れたそのロックンロールの歌を、指を鳴らしながら一緒に歌っていました。
セッションが終わってから、僕を含めた何人かの職員が喫煙室で休息をとっていると、タバコを吸わない他のサポート職員はもとより、活発なメンバーが何人かそこにやってきました。
この頃は、まだ公営の施設では完全禁煙とまではいってなく、数も少なくなった喫煙者には、飾り気のない小さな部屋が与えられていました。
部屋一面に漂うタバコの匂いを嫌って、デイセンターではこの部屋に入ることを敬遠する人も結構多かったのですが、その日はメンバーとスタッフで小さな喫煙室は満員となってしまいました。
喫煙室では、有名なロックグループの話や、これからどこで演奏するかという話など、みんな興奮気味に話し合ったものです。
さて、ロックバンドとなると名前がなくてはなりません。
ところが、バンドの名前をどうするかとみんなに聞くと、それまで熱気に溢れていた話がふと止んで、考え込んだままなかなか案が出てきません。
時折何かの名前が出てきても、「その名前のバンドは、もうあるよ」ということになって、なかなかそれ以上には進まない…。
何せ、ストックホルムにはロックバンドだけで2000もあるので、これといったユニークな名前を見つけるのも難しい。
そんな沈黙の中で、ふと、「EKOっていうのはどう?」とみんなに聞いてみました。
以前、学習連盟の機関紙から音楽療法についてのインタビューを受けた時に、「僕らのやっていることは、音楽を通してお互いのシグナルを交換しているということで、それはあたかも『こだま』のように、シグナルを出せば相手からも反響して戻ってくる」と言ったことが頭に浮かんできたからです。
そうすると、車椅子を使っているマリアが「EKOグルッペン(グループ)がいい!」と言いました。
普段から陽気で、またその笑い声がいつもみんなを和やかにさせ、また話すことも論理的な彼女にはみんな一目置いていたためか、彼女がそう言うと、誰も反対する者はいませんでした。
そして、この瞬間にロックバンド「EKO」が誕生したわけです。
マリアのいうように、名前はしばらくの間「EKOグルッペン」というものでした。
デイセンターでの作業グループの多くは「何々グループ」と呼ばれることが多かったせいもありますが、でも、名前は語呂がいいし、とにかくデイセンターらしい。
デイセンターで生まれたロックバンド「EKOグルッペン」…まさに、ロックンロールでした。
⚫︎ギタープレイヤーとロック歌手、そして「お母さん」役
このグループは、「エクトルプ・デイセンター」で行われていた音楽セッションの三つのグループのうちの一つです。
ロックグループ「EKO」となった中度の障害を持つ利用者のグループには、作業グループから担当の職員3名が、セッションが始まった当初からサポートとして参加していました。
元ロック歌手だったウッフェもその一人ですが、彼が担当していた木工芸のグループでは利用者にとって兄貴分というような存在で、いつも冗談を飛ばして木工芸グループの利用者からも慕われていました。
また、セッションでは得意の歌唱力を独特のしわがれ声で披露し、初期の頃のセラピー的な関わりでも、ハーモニーをつけるなどして歌に味をつけていました。
ノルウェー人のゲイルは、昔は学習連盟のサークルなどでギターの指導員をやっていましたが、デイセンターではウッフェとは別の工芸グループの職員で、何事にも物静かな対応やその慎重な姿勢は、また利用者からの信頼を受けていました。
僕がその場の状況や雰囲気に合わせて音楽のニュアンスやリズムを変えても即座についてこられるほど、ギターの腕は素晴らしいものでした。
また、元歌手のウッフェがいるので遠慮でもしているのか歌は唄いませんでしたが、ギターのソロになると、顔をしかめながら見事な即興演奏をやってのけ、曲の展開も大いに広がりました。
3人目の職員は、テキスタイル(布を素材にした手工芸)の仕事をしていたビルギッタという女性です。
ウッフェやゲイルのように音楽的には目立つことはしませんでしたが、メンバーである利用者と一緒に打楽器などの演奏をする他に、セッションが始まる前には椅子を揃えたり楽器の準備をしたり、時にはセッションに遅れてきそうなメンバーがいれば早く集まるように促したり、ある意味での「お母さん役」を演じることで陰の力となっていました。
彼らが初めの頃から積極的にセッションに参加したのは、もちろんそれぞれ音楽のバックグラウンドを持っていたり音楽が好きだったということがあったにせよ、セッションになると、利用者たちが普段の作業では見せないようなエネルギーを出し、普段とは違う行動を見せることに注目したからです。
もちろん、彼ら職員の積極的な関わりがセッションを一層充実したものにしたことも事実ですが、セッションを通して、利用者の持っている可能性を見ることができ、またセッションの余韻を、それぞれの作業の場でも活かすこともできました。
そして、利用者との関係も、自然でより好ましいものになっていったのです。
⚫︎ダンシング・クイーンとラップ・ブルース歌手
テキスタイルグループのグンとスッシーという二人のダウン症の女性は、自他共に認めるグループのダンシング・クイーンでした。
彼女たちは、普段は陽気ですが、グループで長く同じ作業をすることが苦手で、職員が何か言ったことが気に障ると、途端に無口になってそっぽを向いてしまうことがしばしばでした。
自分で出来ないと思っていることが多いためか、他人から指示されるとそれをやりたがらず、いろいろ理由をつけては作業から離れようとします。
ところがセッションになると、まるで陽気になり、行動も積極的になりました。
タンバリンなどの打楽器を持てば軽快なリズム感に乗り、歌の場面ではその辺りにあるものをマイク代わりにしてマイムで歌い、興に乗ると黙って椅子に座っていられず、半円座の前に出てきては踊り出すのが常でした。
特にスッシーは、マイクで歌う真似をする時などは、まるで観客の前でパフォーマンスをするかのように、見えない観客に向かって微笑みを投げかけていました。
この二人は同じダウン症で、お互い似ているところがあるのを意識してか、常に相手のすることは自分も出来ることを誇示するかのように、一人が立ち上がって演奏すればもう一人も立ち上がり、一人が踊り出すともう一人も踊り出すという具合に、お互いが刺激し合っている様子もよくわかります。
それは、普段の作業では見られない光景でした。
作業の時は、お互いに知らん振りをしていたのです。
しかし、音楽の時間ではパフォーマンスを担うようになり、そのため次第に二人の中である種の仲間意識も生まれるようになったのか、セッションが進むにつれて、作業中に二人で行動することも多くなってきました。
メンバーの一人ネッタンは、これから何が起こるかということを何度も何度も職員に繰り返して喋り、その都度職員からは「その話は、何回も聞いた」と言われながらも、どうしても喋らずにはいられないという性格の持ち主でした。
いつも、これから起こることを確認せずにはいられなかったのです。
そして、デイセンターで誰か職員が病欠でもしたり、何かの予定が変更にでもなると、それから後には何が起こるのか分からなくなり、パニックに襲われて自傷行為を度々行いました。
また、何回も話しかけるのに相手の職員が彼女の話を聞いていないともなると、やはり自傷行為をするわけです。
そんなある日のこと、デイセンターの作業室を通りかかった時に、誰もいないはずの部屋で、彼女が独り言を言っているのが聞こえました。ガラスの窓越しに見ると、彼女は手拍子を打って軽いダンスの足踏みをしながら、その日あることを一人で喋っていました。
僕はその頃、彼女のグループホームを1週間に一度訪問して、他の利用者と一緒に音楽のセッションをやっていました。
それで、その独り言を聞いた週のある日、彼女のグループホームでギターを弾きながら、彼女に何気なく次の日の予定を聞いてみました。
ギターを彼女の打っていた手拍子のリズムに合わせると、ノリのあるラテン・ロックのリズムになっていました。
すると彼女は、リズムに乗って手拍子を続けながら、次の日の予定を喋り出したのです。
「次に、何をするの?」と聞くと、まるで会話のように答えが返ってきました。そして、頭を振りながら嬉しそうな顔で話すことの内容も、どんどん先に展開していきました。
いつまでも終わりそうもないので、音楽的にエンディングの感じを出しながら「ネッタンは、いっぱい話してくれる…」と繰り返しながらギターの音を終えると、彼女の語りもそこで終わりました。
ラテン・ロック調の、完璧なラップでした。
「ネッタンのブルース」というEKOの演奏ナンバーの一つはこうして出来上がり、その後、演奏する曲の中でも重要なレパートリーになりました。
初期の頃のセッションでは、ネッタンも少しの間は参加していましたが、そのうちにふと席を立ち、部屋から出ていくことがしばしばありました。
しかし、セッションの中にその曲を取り上げるようになってからは、そこにいる時間が少しずつ長くなっていきました。
彼女のお喋りは、誰も好んで聞こうとはしません。
「もう、その話は何回も聞いた」と言われるのがオチです。
ところが、セッションの曲として「お喋り」を使うと、それに伴奏まで付いてくるし、曲が演奏されている間は、誰にも文句を言われずに好きなことが言えます。
「EKO」の活動が始まって外で演奏するようになると、観客の前で演奏する時には、乗っている自分にスポットライトも当たり、時にはその曲に合わせて観客も踊り出し、おまけに曲が終わると拍手も貰えるわけです。
人から疎まれていたお喋りは、彼女の持ち味になっていきました。
彼女にしてみれば、自分というものの意味の大転換です。
やがて「EKO」が独立したデイセンターとして移転する頃になると、彼女が自傷行為をするのを見るということは、ほとんどなくなっていました。
⚫︎職員、そして家族と後援会
エクトルプ・デイセンターの職員は、普段から音楽セッションのサポートをしているだけに、音楽活動自体には非常に好意的でした。
また利用者の家族も、利用者が音楽を楽しんでいることは子どもと接していてもわかるので、これまた好意的でした。
しかし、グループがバンドを組んで外で演奏するようになると、日中に演奏する機会も多いので、デイセンターの中でもスケジュールや移動などに関して様々な影響が出てくることは避けられません。
デイセンター全体がバンドの活動を支援しなければ、いろいろギクシャクすることが出てくることも考えられます。
また家族としても、利用者がデイセンターの外で独自に行動するということには、一抹の不安もあるものです。
ですから、デイセンターでバンドとしての活動をするためには、職員と家族からのバックアップが必要でした。
そこで、デイセンターで半年に一度行われる職員会議が終わってから、デイセンターの食堂で演奏する機会を作ってもらい、職員全員と、メンバーの家族や、さらに県の援護局の委員や職員も招待することにしました。
どうせ見てもらうなら、周りにいるみんなに見せた方が良いに決まってます。
食堂での演奏は、初めて人前で演奏するということもあって、いつもより力が入りました。
何しろ、初めて本物のマイクで「観客」に語りかけ、観客の前でパフォーマンスをするわけです。
「イェー!」と叫べば「イェー!」とこだまが返ってきますし、後ろではドラムが叩きつけます…。
セッションの時とはまた違う演奏に、デイセンターの職員も初めのうちは驚いたような表情をみせていましたが、そのうち演奏が進むにつれて自然に体でリズムを取り出し、約30分の短い演奏が終わる頃にはみんなで踊り出していました。
家族の反応は職員ほどストレートではありませんでしたが、それでも自分の子どもが自由に表現している姿を見て、これまた家族同士で顔を見合わせながら手拍子を打ったり、普段見ることのない職員の姿と我が子を見比べながら、微笑んだりしていました。
演奏が終わると、何人かの家族が「後援会」を作ると言い出しました。
他の親も同調して、ぜひ後援会を作るようにと勧めてきたのです。
家族というものは、やはり子どもの利益を守ろうとするし、また、子どもが生き生きとすることがあれば、積極的な支援を惜しみません。
なので、家族がバンドの後ろ盾になったいろいろサポートをするのは当然かもしれませんし、それはまた有難いことでもあります。
かといって、バンドのあり方や活動にあまり口を出されても、かえってやり難くなることがあるかもしれません。
そこで、演奏に招待した県の援護局の運営委員長という人に会長の役をお願いして、「EKOグルッペンの友の会」というものを結成しました。
また親の他に、デイセンターの所長以下有志にも会員になってもらいました。
そして、バンドの運営はその「EKOグルッペンの友の会」が行い、僕はバンドのリーダーとして活動の責任を負う、という形が出来上がりました。
これによって、グループの活動は、組織上、一応デイセンターとは別に独自の活動を行うことも出来るし、しかも県の援護局の委員長が会長であり、会員には家族も職員もいるという具合に、グループに関わる全ての分野の人が支援者であるという支援態勢が出来上がったわけです。
実際、この後援会は、その後バンドが国内公演や海外公演などを行う際には、助成金の申請や外部にいろいろ働きかける上で、非常に大きなサポートとなりました。