「EKO」の活動

音楽の広場

⚫︎活動方針

「EKO」がバンドとしてスタートし、また1991年にはエクトルプ・デイセンターから独立して独自の音楽活動をする「EKOデイセンター」として活動を続けていましたが、その活動方針は、大きく分けて四つありました。

ひとつは、あくまでも障害を持つメンバーのための活動ということで、メンバーたちが音楽の活動をする中で自分を発揮して、安心できる環境の中で自分に誇りを持って暮らすことです。

二つめは、自分たちのやりたいことを日常的にできる体制をつくり、日中活動が一人ひとりにとって意味のあるものにすること。

また三つめは、同じ「障害者ケア」という部門の中で、活動のあり方や利用者に対する姿勢にインパクトを与えるようなものにしていくこと。

そして四つめは、自分たちの活動を通じて、それらの姿勢を「障害者ケア」の外に向けてアピールしていくことでした。

これらのひとつひとつは別のものであるように思えますが、バンドの活動をすることの中ではそれぞれ繋がりがあるもので、「EKO」の活動全体を貫いていたものです。

メンバーが「障害者ケア」の利用者であるということは、サービスを行う側としては、「本人の自己決定による自立を支援」するという原則で決められた法の目標に沿うという責任があります。

そのこと自体は、「障害者ケア」のどの部門でも同じですが、僕らは、音楽する中で、彼らが自分を主張し自分の認識を深めて、より自分というものを確立していく過程を目の当たりにしていました。
デイセンターの中でも音楽セッションを通じても、またバンドとして違う方向に進んでいっても、そのことに変わりはありません。

むしろバンドという集団を結成してみんなが同じ方向に向かって進んでいくことで、日常の活動が明確になったし、さらに演奏などで評価を受けるたびに、彼らは「自分」としての意識を深めていくようになっていきました。

しかし、音楽活動ばかりが重要というわけではなく、彼ら自身が「安心できる」暮らしをするために「ケア」ということも考えなければなりません。

夜の演奏もありましたし、長期間にわたる海外ツアーなどにおいても、身体的にも精神的にも負担があまりかからないように、サポートの態勢も慎重に考えなければいけません。

二つめの方針である「やりたいものを日常的に行える態勢」と「日中活動が意味のあるものに」については、実は、結構難しい問題です。

「日中活動を意味あるもの」にするためには、作業の目的がはっきりするように、デイセンターでの作業を音楽活動に結びつける内容にすることが考えられます。
そうすることによって、作業をするモチベーション(動機付け)も明確になるはずです。

なので、これはデイセンターの活動の中で解決できる問題ですが、「やりたいものを日常的に行える態勢」とは、端的にいえば音楽活動を「プロ化」していかなければならないことになります。

バンドという演奏を行うグループで活動するということは、演奏の場を確保していかなければならないし、高価な機材や楽器も揃えなければいけません。
活動や行動範囲が広がるということは、それだけ経費もかかるわけです。

また、職員にしても、ボランティアのないスウェーデンとしては、時間外にも仕事をすることになるので、その償いも何かの方法で解決しなければなりません。しかし、それらのことは公的なデイセンターとしての責任範囲を超えたものなので、それをやりたければ自分たちで責任を持たなくてはならないわけです。

公的なサービスとしてのデイセンターは、コミューンにとっては、「その場を保証する」ことが責任であって、そこで何をするかは各現場に任されています。

なので、例えばデイセンターのバンドが国内や国外で公演するからといって、その経費を負担する義務はないわけです。
音楽活動は結構だが、それは「やれる範囲」でやれということであって、僕らの「やりたいこと」を支援するという意味ではありません。

つまり、「自分たちのやりたいバンド活動」をするデイセンターともなれば、デイセンターとしての機能を果たすと同時に、活動は「プロのバンド」として、独自に運営する必要があるということになり、この二つを統合していくことが一番難しいものでした。

三つめの「活動のあり方や利用者に対する姿勢にインパクトを与える」ということや、四つめの「障害者ケア」の外に向けてアピールするという方針は、バンドの活動を通してやってきたことであり、それに対する評価は外からの判断によるものなのでここでは省きますが、スウェーデンにも障害者のバンドはそれまでにもたくさんあったとはいえ、「EKOデイセンター」のような活動は当時のスウェーデンでは初めてのことでした。

その後、特別支援学校に「創美科クラス」が出来たり、絵画の「芸術スタジオ」や「メディアスタジオ」という活動の場が設立されたことを考えると、日常的に文化活動をするということについて、ある程度のインパクトを与えることに貢献したのではないかと思います。

いわゆる「障害者福祉」の外に向けての活動も、国内外での数多くの演奏を通して、障害者の状況に対して周りからの目が集まるように働きかけてきました。

⚫︎音楽をしてない時には何をしているの?」

「EKOのデイセンターで、音楽をやってない時には何をしているのか」という質問は、スウェーデンでもあちこちで聞かれたことです。
もちろん職員がそう聞かれる場合が多かったですが、たまにはメンバーが聞かれることもありました。

広報用の絵葉書やポスターの絵に色を塗ったり、グッズ用のバッジを作っていたヤンネは、そう聞かれると、「音楽やってる」と答えるのが普通です。

聞き方が拙かったのかと思った質問者が、「毎日音楽してるの?」と聞き返すと、ヤンネは「いや、火曜と木曜だけ」と答えます。
そこで、「月曜とか水曜は何やってるの?」と改めて聞くと、そこで初めて「バッジを作ってる」と答えたものでした。

ヤンネにとっては、デイセンターに通うのは音楽をやるためで、練習は音楽そのものですが、バッジを作ることも「音楽すること」だったのです。

ヨーランは、デザイナーです。
彼の絵というのは、描く形は実物と違って見えても、よく見るとそのものの特色を彼独特のセンスで描いているのがよくわかります。

また彼の持ち味は、やはりこれも独特のスタイルを持つ文字にも見ることができます。
デイセンターの建物に飾られている看板の「EKO」という文字も、絵葉書やバッジ、それにグッズ用のTシャツに描かれている「EKO」の文字も、彼のデザインによるものです。

しかし、いつも文字だけ書いているわけにもいかないので、デッサン用の紙に色々な絵を描いていました。

それは時々人間であったり車であったりしますが、テキスタイルと衣装担当の職員ビルギッタは、そのモチーフをTシャツのプリントのデザインに使ったり、重度の障害者が楽器として使いやすいように鈴をつけた、ヨーランのデッサンによる縫いぐるみの人形を作ったり、いろいろ工夫をして作品として使っていました。

実は、「EKO」がバンド活動をする前の音楽セッションの時期には、ヨーランは参加していませんでした。
自宅にはクラシックのCDを200枚も持っている彼は、音楽にはうるさい方です。

でも、小脳に障害があるせいで、動きのバランスやリズムを取るのが苦手で、自分でもそれは分かっていて、音楽セッションの時には参加しませんでした。

ところが彼は、「EKO」が結成されると、「ロードマネージャーをやりたい」と言って、自主的に参加してきたのです。

ただし、「ステージには立たない」ということが条件でしたが、やがて「ロックは、楽器を弾かなくても歌わなくても、パフォーマンスが出来る」と言って、これまた自主的にステージに上がるようになりました。

マリア、ネッタン、グン、アン、それにスッシーなどの女性メンバーは、衣装グループでステージの衣装を縫ったり、Tシャツやその他の物に施すためのシルクスクリーン・プリントを担当しました。

別に仕事に男女分けをするつもりは毛頭なかったのですが、「何をやりたいか」と聞くと、自然にそうなりました。

この作業グループの担当が、お母さん役のビルギッタであったことも女性が集まった要因かもしれませんが、作業や活動に差し障りがあるわけではないので、そこは自然に任せたということです。

車椅子を使うマリアは、衣装のアイロンをかけることは、タンバリンを叩く手の運動になるから良いといって、積極的に仕事をしました。

その他に、彼女が自分から買って出た役目もあります。
「広報係」がそれです。

見学があるとその案内役や、また広報誌に「障害者の実情」を書く役目を自ら申し出ました。

彼女はメンバーの中では数少ない「入所施設体験者」で、その体験から、車椅子の生活や障害者への周りの目といったものについての記事などを、「EKO」の広報誌に載せました。

広報誌といえば、ニッセは広報誌の記事を書くのが仕事でした。
彼は元々タイプライターが使えたので、パソコンを導入する前からタイプライターで記事を書いていました。

彼は、社会情勢に関心があるので、時折新聞やマスコミで伝えられる「障害者ケア」や「高齢者ケア」についての問題なども好んで取り上げました。

彼は、書くことに疲れ、キーの打ち間違いが多くなると、その辺をブラブラして気持ちを整えていたようです。

キッチンで考え事をしているような彼に「どうしたの、書かないの?」と職員が聞くと、よく「今、考えてる」と返事をしたものですが、ものを書くというのは、ただ机に向かっていれば書けるというものでもないので、それは当然だったかもしれません。

⚫︎デイセンターの運営とバンド活動

デイセンターは、また「日中活動所」とも呼ばれ、障害を持つ人の日中活動を充実させる場です。
しかし「EKOデイセンター」は、ただ利用者の日中活動を保証する場だけではなく、同時にバンドの活動を支えるという、文字通りの「活動所」でした。

スウェーデンでは労働時間がはっきりしているので、残業というのは、少なくとも公営の施設では見られません。
しかし、普通のデイセンターとしての機能を果たす他にバンドの運営などの仕事があると、そうはいってもいられません。
「プロのバンド」を維持していくには、他のプロがするような苦労もしなくてはいけないのです。

しかし、その活動がデイセンターの中で行われるということは、そのシステムを利用することも出来るわけで、デイセンターの活動とバンドの活動を一緒に行うことも、やり方によっては可能です。
デイセンターの仕事を、バンドの仕事にすれば良いわけです。

そこで、デイセンターの作業の内容を、すべて自分たちの音楽活動に関わりのあるものにしました。

メンバーたちは、実際は年金で暮らしているので、デイセンターでの仕事は生活を支える収入を得るためのものではありません。

もっとも、デイセンターで仕事をすることによって、いわゆる「ハビリテーション費」という、ほとんど昼食代に等しいようなお金が出るので、デイセンターには「働きに行く」と考えている障害者も多いことは事実です。

しかし、デイセンターの作業の内容は、実際には職員ができること優先で決められることが多いので、自分のやりたいことと、そこにある作業の内容が必ずしも合致するという保証はありません。

そうなると、結局は、自分が毎日しなければいけないことは、「それをしなければいけないと言われるから…」になってしまうことも多いわけで、作業のモチベーションを失ってしまうことになってしまいます。

ところが、「好きな音楽をするためには、これをしなければいけない」ということで、例えば広報のチラシやグッズを作ったり、衣装を作ったりする作業をすれば、それは演奏活動をする上で目に見えることになって、例えばヤンネにとっては「音楽をすること」と「バッジを作ること」は、そんな意味で繋がっているわけです。

ともあれ、デイセンターでの活動は、週に二日の音楽の練習の他に、「広報とPR」、「衣装とテキスタイル・グッズ製作」、「その他のグッズ製作」、「楽器とスタジオ管理」、「昼食の料理」、「清掃」という部門に分けられました。

メンバーは、その一つの作業を専門にする者と、状況に応じていろいろな作業をする者とに別れていました。
演奏のブッキングや対外交渉は、僕の役目でした。

活動をそのように分けることで、バンド活動とデイセンターの運営を行なっていくうえで必要な作業を行うことが出来ましたが、その中のスタジオとは、稽古場の中にある録音スタジオのことです。

プロのバンドの中でも自分たちの録音スタジオを持つものは数少ないでしょうが、これはバンド活動で得た利益では到底足りないほどの費用がかかるにも関わらず、思い切って投資しました。

録音スタジオを持つことで、自分たちのCD製作が出来た他にも、地域にあるバンドのCD製作も行えたし、また音楽の練習にも効果がありました。

そして何よりも、「EKO」がプロのバンドとして活動していることのアピールにもなったわけです。

「プロのバンド」であるからには、バンドのPRからCD製作までの過程を自分たち自身で出来なければいけない、といいうのが僕らのモットーでした。

次は、演奏の練習に続きます…

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