スウェーデンの音楽療法(その2)パイオニアの時代

音楽療法の部屋

⚫︎実践者としてのパイオニア

ブリットマリー・アドルフソン

スウェーデンの音楽療法の流れの中では、1970年代は「パイオニアの時代」とも言えますが、トレーニングスクール「モカジーネン」(重度障害児の特別支援学校)の音楽活動を担当していたブリットマリー・アドルフソン(特別教育教師)は、実践者としてのパイオニアの一人です。

彼女は、特に歌とリズム楽器を使う方法で、障害児の身体協調運動(モトリーク)に働きかける音楽活動を行いました。

その手法としては、よく知られている曲を替え歌して歌いながらそれに合わせて児童がリズム楽器を演奏するというのがメインですが、演奏ができない児童にはリズム楽器に触れさせるという方法で児童の身体協調運動を促し、同時に聴覚と触覚の刺激を行うということを重視していました。

さらに、障害児の理学療法の場合には、言葉をかける代わりに歌を唄うという方法で理学療法士と一緒に機能訓練にも音楽を用いるなど、理学療法の補助的役割を担うことを広めていきました。

ブリットマリー・アドルフソンは、そのために特別な曲を使うということはせず、普段みんなが知っている曲の歌詞を替えて唄いましたが、通常の幼稚園で歌われる、いわゆる「わらべ歌」や民謡、また昔から歌われている歌謡曲、その他外国、特にアフリカの伝承曲などの替え歌を使い、みんなで遊びながら身体を使うというリトミックの方法も行いました。

彼女はまた、トレーニングスクールやその他の特別支援学校だけではなく、成人の知的障害者のデイセンターなどでも音楽活動がより広がるように積極的に音楽活動を行いましたが、障害児教育の中では「音楽療法」という言葉を、むしろ避けていたようでもありました。

それというのも、当時は「教育的音楽療法」あるいは「特別教育的音楽療法」という概念はまだ確立されていなかったので、特別教育に関わる教師の間では「療法」という概念を用いずに、「音楽活動」あるいは「音楽と身体運動」という範疇で語る方がより理解されやすいということであったと思われます。

しかし、彼女の活動は広く知れ渡っていたので、その後音楽療法というものの形が出来上がっていく上では、「教育的音楽療法」の一つのあり方として理解されるようになっていきました。

ヤンネ・ブロムクヴィスト

もう一人のパイオニアは、やはり1970年代にスウェーデンの中部にあるカテリーネホルムという町で特別支援学校の音楽教師をしていたヤンネ・ブロムクヴィストです。

彼は元々公立の普通学校の音楽教師でしたが、地域の教育委員会の障害児音楽コンサルトという職にもあり、特別支援学校での音楽の時間も担当していました。

彼は、障害児の音楽教育の基本を「音楽によるコンタクト=コミュニケーション」と捉えていて、また、1973年に出された「特別支援学校、幼稚園の音楽教育プラン」に書かれていた、「音楽は、生徒に安心感を与え、彼らが緊張から解放されて、コンタクトを取ることや物事の印象を受け入れることが出来るようになるため、療法的である。また音楽は、生徒の音に対する認知力や集中力を高め、音楽の活動は、生徒と教師、あるいは生徒同士の良い関係作りへの訓練となる。」という内容を、非常に評価していました。

そのため彼は、その音楽活動を療法として捉え、セッションの進め方を体系づけていきました。

彼の音楽セッションには、「コンタクトを取る練習」、「感覚刺激練習」、「リズムの練習」、「楽器の演奏」といった要素があり、生徒は円座になって椅子に座り、まずお互いの良い関係を作るということを目標にして、身体に触れたり、ものや楽器をお互いに回したり、その他いろいろな遊びを行うことから始めるということを推奨しました。

ヤンネ・ブロムクヴィストとブリットマリー・アドルフソンは、その後学習連盟(生涯教育)の障害者との音楽学習・音楽活動の教則本を共に出版しましたが、その中でセッションに使う曲を、「始まりの歌」、「名前の曲」、「時間の歌」、「動作の曲」、「演奏の曲」およびその他の歌などに編集して、その後の障害者との音楽活動に大きな影響を与えました。

ラッセ・イェルム

ウプサラ市にある「バーナドッテ学校」は、主に脳性麻痺による肢体不自由児の学校として、スウェーデンではハビリテーション志向のモデルになった学校ですが、やはり1970年代に、そこの音楽教育を担当していたのがラッセ・イェルム(音楽教師)です。

彼は、障害児の叩くドラムのリズムにピアノを即興的に合わせるというやり方で、肢体不自由児との音楽療法に関わりました。

彼の方法は、どちらかというとノードフ・ロビンス音楽療法との共通点がありましたが、彼は障害児の心理的・内面的な側面よりも、身体協調運動や運動における脳の動きというものに注目していました。

しかし彼は同時に、「教育的音楽療法」というものが音楽療法の範疇に入ることには疑問を持っていたようです。

ブリットマリー・アドルフソンは他の「特別教育教師」に配慮して、特別支援学校での音楽活動では「音楽療法」という言葉をあえて使いませんでしたが、ラッセ・イェルムの場合は、「教育」と「療法」というものをはっきり分けて、教育というものが治療を行うのでなければ療法とは言えないという考えを主張しました。

そのため、彼の実践でも長い間「音楽療法」とは明言せず、「補助手段としての音楽」という表現をしていましたが、やがて即興音楽によるセッションをやめて、いくつかのメロディーからなる「コード」というものを独自に考え出し、その「コード」に合わせてドラムでリズムを取ることや、ドラムを叩く姿勢やテンポを矯正することによって、脳に新しい神経組織を作り出すという、独特の理論と方法論を持つようになりました。

そして、それはやがて「Funktion inriktad Musik Terapi=FMT=脳機能回復音楽療法」として展開し、1980年代になると、それまで講師をしていた王立ストックホルム音楽大学を離れて、インゲスンド音楽大学において独自の音楽療法の教育を始めました。

⚫︎その後の流れ

これらパイオニアの活動は、その後スウェーデンの音楽療法の展開に大きな足跡を残しました。

ブリットマリー・アドルフソンの手法や理学療法士との共同作業は、その後医療における「療法における補完的手法」として、スウェーデンの「代替療法」における医療的な認知に貢献し、

またヤンネ・ブロムクヴィストの音楽セッションにおけるアプローチは、その後特に知的障害者との音楽療法のセッションの進め方に大きな影響を与えました。

そして、この二人が共著した学習連盟の教則本が出てからは、その後知的障害者との音楽活動に留まらず、特に各種の学習連盟が主催する障害者や高齢者との音楽サークルが急激に広がっていく上で大いに貢献しました。

⚫︎サークル学習としての音楽活動

スウェーデンでは早くから、国民の教育に関して普通の学校とは違う形での「学ぶ場」というものを人間教育には欠かせないものとして、国民教育という概念でいろいろな教育の場を作り出してきました。

1868年に社会人のための教育機関として国民高等学校と図書館が設置されましたが、1900年代に入ると、学校という場ではない生涯学習の場が、学習連盟という形で設置されました。

学習連盟というのは、国からの補助金によってサークル学習を運営する生涯教育の組織の総称です。

例えば、ABF(労働者教育連盟)、Vuxenskolan(成人学校)、Studiefrämjande(学習推進協会)などの大きな組織をはじめ、国から補助金を得て運営している学習連盟は10ほどあります。

学習連盟の主な教育活動は、サークル学習という形で行われます。

基本的には、学習連盟が学習のプログラムを用意して参加者を募り、各サークルのリーダーと呼ばれる学習指導員を派遣して、およそ10週間くらいの期間で学習を行うものですが、この他に、複数の個人が自主的に何かの科目を学びたいと学習連盟に申し入れて、自らリーダーを選出する場合もあります。

ちなみにですが、

1995年にスウェーデンの北部の町で、学習連盟の大手ABFの主催による「ロック音楽全国会議」という催しがありました。

その際に、当時の人口約880万人のスウェーデンで、実に35万人がロック音楽のグループに参加していて、その中の25万人がサークル学習に登録されているということが発表されました。

これはロックというジャンルだけで、クラシックやゴスペル、あるいは民族音楽など他のジャンルを合わせると、音楽だけでそれこそおびただしい数のサークルがあるということを示しています。

2003年の統計によると、スウェーデン全体の学習連盟による学習サークルは、毎年32万サークルにもおよび、260万人もの人が参加しています。

このように多様なサークル活動は、当然のように障害児や成人の、特に知的障害を持つ人の音楽活動を進める上で重要な場となりました。

デイセンターや当時まだ残っていた施設などでは、日常活動の一環として音楽活動を取り入れていきましたが、支援職員にはないスキルを持つリーダーが派遣されて、日常活動がより意味のあるものになっていったわけです。

⚫︎音楽演奏グループの誕生

1980年代には、これらの音楽サークル活動の中から、今までのように施設内で行われた音楽を外に向けて、観客の前で演奏することを目的としたグループが出てきました。

音楽療法という観点からすると、これは今までのように「部屋の中で行われたセッション」を、外に向けた活動にしたということで、ある意味画期的なことでした。

それは、「音楽療法とは何か?」ということを改めて考えるきっかけにもなり、また「ハビリテーション」というスウェーデンの医療・福祉理念の中で、「障害者の社会参画」への貢献という意味で、スウェーデンの音楽療法の概念が固まっていく過程に、少なからず影響を与えました。

1980年代に生まれた音楽グループには、リリホルメン・デイセンターの「リリホルムス・ロッケン」や、ストックホルム郊外にあるソレンテューナにあるヘグヴィーク特別支援学校での「ヘッガナ」、また、デイセンターの中の音楽グループから出発して独自のデイセンターに発展し、日本も含めて世界各地で演奏ツアーを行ったことで知られる「EKO」などがあります。

(その3、「音楽療法の方向性」に進む)
(その4、「音楽療法士の養成」に進む)
(その5、「国家資格ではない事情」に進む)
(その6、「音楽療法士の働く場」に進む)
(その7、「実証と評価、今後の課題」に進む)

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