スウェーデンは移民が多い国としても知られていますが、そのスウェーデンの移民の状況を最近「北欧福祉研究所」のホームページに掲載しました。
「北欧福祉研究所」ホームページ
https://hokuofukushi.com
今回はその一連の記事を、当ページでも転載という形でご紹介したいと思います。
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近代のスウェーデン
ヨーロッパの歴史において「近代」というと、日本ほど時代区分が明確に分かれているわけではありませんが、一般的には15世紀、16世紀以降〜20世紀中頃までを指します。
また15〜16世紀当時のヨーロッパといえば、中世カトリックの伝統的世界観が大きくゆらぎ、その後の世界史に大きな影響をもつ新航路の発見・ルネサンス・宗教改革という3つの激流がヨーロッパの歴史を彩った時代で、「近代」の出発点とも言われています。
16世紀のスウェーデンでは、1523年にグスタフ・ヴァーサがスウェーデンをデンマークとノルウェーとの連合から解放して独立し、スウェーデン国王となりました。
グスタフ・ヴァーサ国王は、それまでカトリック教だった国家からプロテスタントとしてのスウェーデン国教会の設立や強力な中央政府の創設などの大幅な改革を行い、スウェーデン王国建国の父と称されています。
また、その後彼の後継者となったエーリック14世、ヨハン3世、カール9世などの息子たちは王権を強化して大きな政治力を持ち、その後のスウェーデンに大きな影響を与え、それ以降スウェーデンは現代に至るまでヨーロッパでも有力な国家となりました。
そして、16世紀になるとスウェーデンと他のヨーロッパ諸国との接触が増加し、さまざまな理由から移民の選択的な受け入れが行われましたが、これらはスウェーデンに特有のものではなく、この時期のヨーロッパにおいては一般的な傾向ではありました。
当時のヨーロッパでは、経済や軍事、文化や学術、そして政治や宗教などが理由で、どこの国でもお互い影響しあっていたわけです。
16世紀のスウェーデンと移民政策
16 世紀のスウェーデンでは、今日私たちが体験している近代的で体系的な移民政策というものは、まだ確立されていませんでした。
もちろん、スウェーデン内にはいわゆる当時の「選択的な移民」など外からある程度の人の流動性があり、また経済的機会や政治的迫害からの逃避などさまざまな理由で人々が行き来する可能性があり、実際多くの移民がやってきました。
しかし、グスタフ・ヴァーサ(1523-1560)とその後継者時代のスウェーデンの政治的・社会的状況は、王権の強化、国教としてのプロテスタントの導入、スウェーデン国家の領土一体性の強化などの問題に焦点を当てていたため、当時では移民というものは中心的な問題ではありませんでした。
当時のスウェーデンの社会は、貴族、聖職者、市民、農民という4つの階級に分かれていて、国の議会もそれぞれの階級の代表者で構成されており、領地が結集して君主に助言と支援を与えるという仕組みでした。
国会では戦争、税金、その他の重要事項について議論されましたが、王権は強力であり、国王は国民政府の同意なしに決定を下し法律を制定することができました。
この間のスウェーデンは多くの政治的および社会的変化を経験しましたが、その中にあって、移民に関しては意識的な政治的決定というよりも一般的な状況とニーズの結果であり、現代社会のような特定の規則や規制を伴う正式な移民政策というものは存在していませんでした。
また、スウェーデンが労働力の需要を満たし経済を強化するために一部の移民を積極的に奨励し始めたのは17世紀や18世紀など後期になってからでしたが、その当時でも、今日見られるような近代的な移民政策ではありませんでした。
移民の多様化と、移民への意識の変化
スウェーデンは、18世紀から19世紀にかけて、大北欧戦争(1700年〜1721年にあったスウェーデン対ロシアとポーランド・デンマークなどの連合軍との戦争)やナポレオン戦争など、いくつかの戦争に苦しみました。
これらの紛争により、多くの移民がスウェーデンに来ましたが、移民の大部分は、当時スウェーデン帝国の一部であったフィンランドからの人たちでした。
そして、戦争で荒廃した地域から逃れてきた人々をどうするかという問題やフィンランド語を話す移民の統合と同化についてなどの議論が生じました。
また1800年代半ばには、特にドイツとロシアから宗教移民の波が到着しました。
これらのグループの多くは母国で迫害され、スウェーデンで信教の自由を求めましたが、 これはまた宗教の自由と寛容に関する議論につながりました。
そして19世紀に入るとスウェーデンでは工業化が進み、国内の他の地域や国外から労働力が集まりました。
移民はドイツや他のヨーロッパ諸国からスウェーデンの都市で働くためにやって来ましたが、ここでは労働条件やスウェーデン人社会との統合、労働力が社会に与える影響についてなどが問題となりました。
さらに19世紀には、スウェーデンや他のヨーロッパ諸国において、ナショナリズムが高まりました。
そのため、反外国人的あるいは人種差別的な考え方も発展してきました。
移民は「外国人」、または「違う人」と見なされる可能性があり、これが社会における彼らの扱いや受け入れ方に影響を与えました。
19世紀のスウェーデンでは、国内でのスウェーデン人の文化的優越性と階層構造の概念が広まっており、そのため差別と外国人排斥の意識は一部の状況の中で見られましたが、それが社会的または政治的運動として広がったわけではありませんでした。
しかし、20世紀に入り特に移民が増加してくると、ヨーロッパの多くの地域で外国人排斥と人種差別が政治的および社会的運動として発展し、スウェーデンも第二次世界大戦後に多文化主義と統合の問題が焦点となった時期になると、移民や少数派に対する意識が高まり、国民の間でも議論が起こり始めました。
第2次世界大戦中の難民
第二次世界大戦中、スウェーデンは戦争や迫害から逃れてきたユダヤ人、フィンランド人などを含む多くの難民を受け入れました。
フィンランドからの難民に関しては、特に1939年から1940年のフィンランドとソ連の間の冬戦争や1941年から1944年の継続戦争中にスウェーデンは大量のフィンランド難民を受け入れましたが、当時のスウェーデンではフィンランド国民に対して同胞愛と連帯感があり、同情をもって受け入れられました。
また、特にナチス・ドイツや占領地でのユダヤ人迫害が激化した戦争後期には、当時のスウェーデン当局や一部のスウェーデン人や団体は迫害から逃れるユダヤ人難民を助けるための救出活動に参加し、多くのユダヤ人難民を受け入れました。
しかし同時に、他の多くの国と同様にスウェーデンでも、多くの難民を受け入れるとスウェーデン国内の経済と福祉に悪影響を及ぼすのではないかとの懸念から、避難民に否定的な反応や外国人排斥的な態度もあり、結果的には、人によっては入国の許可が制限されるようにもなりました。
社会民主党政権と移民政策
スウェーデンでは、1930年代から1940年代にかけて、「国民の家」という概念の理念を掲げた社会民主党が労働運動を通して第二次世界大戦前の1936年に政権を獲得し、それ以降、移民政策を含むスウェーデンの政治の形成に重要な役割を果たしました。
「国民の家(フォルクヘンメット)」の理念とは、すべての国民が平等な機会とセーフティネットにアクセスできる、連帯的で福祉志向の社会のビジョンでした。
この理念は、その後の長い年月を通してスウェーデンの社会や政治に影響を与え、同時に、移民をスウェーデン社会の一部として受け入れる社会統合の基礎を築きました。
世界大戦後のスウェーデンを統治した社会民主党政権は、冷戦時代においても国際的に中立の立場と独自の政策路線を継続し、移民に対しても寛大な移民政策を実施して多くの難民や移民を受け入れることに貢献しました。
移民の誘致政策と多国籍化
1960年代に入ると、スウェーデンは経済成長と工業化の時期を経過し、 「スウェーデンの戦後の奇跡」として知られるように、さまざまな分野、特に製造業や建設分野で労働需要が高まり、同時に人口の高齢化が急速に進み、福祉や医療での増大するニーズを満たすための労働力が不足していました。
そのためスウェーデンは、労働力を誘致するために北欧諸国以外に、イタリア、旧ユーゴスラビア(当時は現在のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの各地域を含む)、ギリシャ、トルコ、スペインなど多くの国と、いわゆる「ゲスト労働者協定」の協定を結び、それ以降これらの国の人々は、スウェーデンでの工業、建設部門、農業、また福祉や医療などのさまざまな分野で働くためにスウェーデンに入国しました。
この時期以降の労働移民は多文化的であり、さまざまな国から異なる価値観や背景を持つ人々が含まれていました。
そして1970年代になるとこの傾向はさらに進み、移民の増加が社会に広がるにつれて、政治の舞台だけではなく、次第に市民の間でも社会統合や文化問題に関する話題が広まってきました。
スウェーデンにおいて、いわゆるノーマライゼーションやインテグレーション(社会統合)の理念が、それまでの学術的なそして政治的な議論から一つの社会理念として形成化され、そして具体化されてきたのがこの時期です。
この時期はスウェーデンの産業も上昇中で景気も良く労働力を必要としていたため、雇用主や企業は労働移民の雇用に前向きでした。
都市の郊外はますます広がっていき、多数の住宅地の建設も進んで、1970年代も終わりになる頃には、自治体の住宅政策のもと、移民はそれら各地の郊外住宅地に広がって居住するようになりました。
また、移民たちはそれぞれ独自の伝統、食べ物、文化を持ち込んだため、社会や生活の場での多様化が進んできました。
しかし、社会が多様性してくると社会のいろいろな場で議論や論争も起こり、他の文化に適応したり、また受け入れることに抵抗を感じる人も少なからず出てきました。
移民が増えることで雇用や資源をめぐる競争の激化につながるのではないかと懸念する人もいましたし、また異質な文化に対して懐疑的な人もおり、少なからず声を上げるようにもなってきました。
このように、1960年代と1970 年〜1980年代以降の労働移民に関する議論は肯定的な意見と否定的な意見が入り混じっており、労働力不足に対処し、経済成長を促進するために必要な措置であるという理解のもとにノーマライゼーションや社会統合が普及する一方で、社会の一部からは懸念の声も上がってきました。
この時期が、スウェーデンがいわゆる多国籍国家になってきた始まりといえるでしょう。
政権交代
社会民主党は1936年から1976年までの40年間という長期にわたって継続的に政権を握ってきましたが、1976年の選挙では、保守党である穏健党が26.4%の得票率を獲得して最大政党となり、他の保守政党との連立政権を樹立しました。
ここでスウェーデンは、40年以上もの間政権を担ってきた左派政党の社会民主党から、戦後初めての保守党の連合が政権を担うことになったわけです。
しかし、保守政権内では当然移民問題についての議論はあったものの、スウェーデンは国として中立を守り、また人道的で寛容な移民政策を継続していきました。
1980年代以降〜難民の増加
1980年代以降になると、イランとイラク、またソマリアやアフガニスタンなどの国々の間で紛争が続き、スウェーデンのみならずヨーロッパの国々は国連やE Uとの連携の中で難民を受け入れ、特にスウェーデンには大量の避難民が押し寄せました。
スウェーデンでは1970年代以降に保守政権と左派政権の間で何回か政権交代がありましたが、スウェーデンは国連・EUとの連携を基盤として、伝統的に移民に対して寛大な政策を取り続けました。
しかし、特に1980年代以降、2000年代に入ってからも難民の波がスウェーデンに押し寄せその数が増大し続けることで、特に難民に対するスウェーデン国民の反応は多面的になり、また同時に反移民感情を持つ反対勢力も現れ、反移民運動も増加してきました。
そして1988年には、「移民がスウェーデンの文化と社会を脅かしている」と主張し、明確に反移民政策を唱える政党のスウェーデン民主党が結党されました。
社会統合と多様化
ところで…ですが、
1960年代から1970年代には経済的にも成長を遂げ、またノーマライゼーション(社会統合)という理念のもとに平等な社会を目指したスウェーデンですが、多様化された社会の形成の過程の中ではいくつかの副作用も伴いました。
1980年代に入ると経済成長も他のヨーロッパ諸国と同じように頭打ち状態となり、また高齢者社会にあって医療や福祉などの負担も増加して、1990年代に入る頃には不況も続き、社会経済的にも厳しさが増してきました。
それによって雇用の成長も止まり、90年代に入ると失業率が急激に増加しましたが、その中でも特に若年層の就職難が社会的な問題となりました。
(1970年以降の失業者率の推移)
1960年代のスウェーデンは他のヨーロッパの多くの国々と同じように人口の都市集中が進み、大きな都市の周りには新しい住宅地が次々と建設され、多くの若い世代の家族が移り住んできました。
国境を越えての移住も盛んになり、つまりは移民の多くもそれら都市の郊外に新しく建設された集合住宅に集中的に住むようになったわけです。
そして、失業率の増加とともにそれらの住民の次世代である若年層が就職難の直撃を受け、多くの若者が「若年失業者」という呼び名とともに行き場を失っていきました。
また、都市の建設は人口の増加に合わせて行われたので、その時期や状況によって同じグループの移民が特定の地域に集中するということが往々にしてありました。
そのため、それぞれの地域に住む特に若い世代の間で、人種や国の違いあるいは文化や宗教など異なるグループによるスラングが広がって、例えば「リンケビー・スウェーデン語」や「テンスタ・スウエーデン語」など、現在では「郊外スウェーデン語」と呼ばれるものが生まれる現象も出てきました。
ヨーロッパのシェンゲン条約を共有する多くの国の間では、特にベルリンの壁の崩壊後には東西陣営の垣根を越えて人も自由に旅行できるようにもなり、それにつれて国際的な犯罪集団も移動が容易になったこともあって、各地の都市で治安が悪化する傾向も出てきました。
そして、都市の郊外住宅地では行き場のない若者たちが、他の地域や異なるグループ同士の対立などもある一方で、その少し前より広がりを見せていた反移民でネオナチ的なスキンヘッド集団などとの対立など治安が悪化して、社会的にも分断化が進みました。
このような政治的状況の中で、スウェーデンは2015年まで寛容的な難民政策と移民に対する寛大な姿勢を保持していましたが、特に2015年に起きた難民危機で亡命希望者の数が劇的に増加したため、今後スウェーデンが今まで同様に寛大であるかどうか、政策の変更が必要かどうかについての議論が生じ、その結果2015年以降、移民政策を強化するための法改正が行われました。 つまり、難民希望者の数を制限し、申請が拒否された人の追放を容易にするための多くの法律が可決されています。
反移民勢力の台頭
さて、1988年に、半移民政策を唱えるスウェーデン民主党が結党されたということは前にも述べましたが、2011年後半には主に「国家主義的展望を持つ社会保守政党」とすることでイデオロギー的なプロフィールを表現し、同党にとっての主要でかつ広範な問題は、犯罪との戦いと制限的な難民・移民政策であるとしました。
しかし、1988年に結成当時のスウェーデン民主党の創設者や初期メンバーの中には、進歩党、スウェーデン党、スウェーデン語保存運動(BSS)などの極右政党やネオナチス政党または組織で以前から活動していた人もいたため、それまで伝統的に中道的な道を歩んできたスウェーデンでは一般市民の価値観とは相容れないことが多く賛同者も多くはありませんでしたが、特に2000年以降の移民や難民の増加に伴って、次第にそれまでのスウェーデンの移民政策に異論を唱える市民の共感を得て成長を続けました。
スウェーデン民主党は、1991年の地方選挙で市議会の議席を初めて獲得して以来、2010年の国政選挙では得票率5.7%という結果で4パーセントの壁を突破すると、その後2014年の国政選挙後にはスウェーデン国会で第3位の議席数を持つ政党にまで成長し、2022年の国政選挙では73議席を獲得し、国会において社会民主党に続いて第2位の勢力を持つに至りました。
(スウェーデン民主党(SD)の得票率の変化)
2022年の選挙の結果、現在のスウェーデン政府はそれまでの社会民主党の連合政府に代わって、保守勢力である穏健党(68議席)、キリスト教民主党(19議席)、自由党(16議席)で構成されていますが、スウェーデン民主党は保守政党陣営の中で最大政党となったものの、他の与党4党が有権者に対してスウェーデン民主党との交渉は続けるが政府の議席を獲得させないことを公約したため、政府の一員とはならずに、2022年10月に公表された4政党間の政治協定によって、現在の政府は政府外のスウェーデン民主党(73議席)の支援を受け、同党の政策をある程度反映せざるを得ない状況になっています。
各政党の移民政策
2022年の国政選挙では保守党連合が政権を獲得しましたが、それまで保守党としていつも保守連合に協力してきた中央党(Centerpartiet)は、極端な反移民政策をとるスウェーデン民主党との政権での協力を拒否して、政府に加担することを拒絶しました。
このようにスウェーデン民主党は、特に移民政策において、世論の分断のみならず政党間の協力体制にも大きな影響を与えています。
ちなみに、2023年現在スウェーデンの政党は全部で8党ありますが、それらの政党を大きくかつ単純に色分けすると、いわゆる左翼陣営と保守陣営に分けられます。
左翼政党:「社会民主党=S」、「左翼党=VP」
保守政党;「穏健党=M」、「キリスト教民主党=KD」、「リベラル党=FP」、
「中央党=C」
そしてこの他に、「環境党(緑の党)=MP」と反移民政策を唱える「スウェーデン民主党=SD」があります。
この中には「中道」を唱える政党もいくつかありますが、これらを図にすると、下記のような勢力図になります。
参照:Skolbanken https://skolbanken.unikum.net/plans/plan/6166768927
この図によると、スウェーデン民主党は右派に属しますが、その極端な民族主義・反移民的な政策なため、他のどの右派政党も距離をとっているのが現状です。
また、2022年の選挙での政党の勢力図は、得票率によって下記のように分けられます。
このように現在のスウェーデンの国会では中央党(C)を除く保守政党の連合が政権を握っていますが、移民政策に関してはそれぞれ意見が分かれています。
ここで、アフトンブラーデット新聞が実施した、移民に関する各政党へのアンケートの結果をいくつかご紹介します。
⒈スウェーデンは難民受け入れ数を減少するべきか?
⒉市民権を会得するには、スウェーデン語の知識が必要条件か?
⒊移民家族の親近者に対する、生活維持の条件証明の要件を撤廃するべきか?
このように、移民に関しての具体的な課題に対する政策については、政治的な左右の立ち位置とはまた別にそれぞれの立場を取っていることがわかります。
また、地方自治体のレベルでは、その地域性によってこの傾向は一層強まり、国会レベルとはまた違う色分けになることも往々にしてあります。
さて、前にも述べたように、スウェーデンでは2015年以降難民希望者の数を制限し、申請が拒否された人の国外追放を容易にするなど、移民政策を強化する多くの法改正が行われました。
しかし、この移民に対する制限の動きはスウェーデンに限られたことではなく、現在は他のヨーロッパ諸国や北米など移民や難民の波が押し寄せている多くの国々では、同様に移民や難民の受け入れを制限することを余儀なくされています。
スウェーデンは、かつて社会民主党の主張する「国民の家」運動が国としての社会理念となり、平等や相互扶助精神に基づく福祉国家を築き上げ、移民に関しても世界大戦後には他国に先駆けて寛容な姿勢をとり続けてきましたが、社会統合が進展する一方で様々な格差も生じて社会が分断化されるという現象も生まれました。
都市の郊外では若い世代のグループ化も加速し、また犯罪など社会的な不安の中でいわゆるギャンググループ同士の抗争も次第に増加して、2000年代に入ると郊外や近郊などでギャング同士の銃撃戦も起こるなど治安も今まで以上に悪化してきました。
このような状況の中で、一般市民の反応も複雑に変化してきました。
それまでは、治安の悪化と移民との関連性については否定的な一般の市民の中にも、治安を脅かすギャング集団の多くが移民系の若者が中心であることもあって、特に難民の受け入れが進んだ2015年辺りからは、急速な難民の増加に対するそれまでの移民政策に懐疑的になる傾向も増えてきました。
また、国民の多くが「今までの移民政策は変えなくてはいけない」ということに共感しているとはいえ、では「どのように変えるべきか」という対策案については、多くの国民が納得し賛同する具体的な提案や道筋が示されずに、政策を非難する声のみが多く聞かれるというのが現状ではないでしょうか。
そして、このように多様化と分断が進む状況の中で、現在は「国民の家」という社会理念を唱える声はほとんど聞こえてきません。
戦前から戦後にかけて、その社会理念の基に社会統合を目指し福祉国家を築き上げてきたスウェーデンですが、経済的にも社会的にも分断化・流動化している現在の国際社会の中では、「今後スウェーデンはどうあるべきか?」という新しい社会理念を模索する必要に迫られているのかもしれません。ナショナリズムや宗教、あるいは地政学的な紛争など様々な分断化が進む現在の世界にあって、今後スウェーデンがどのような方向性を見つけていくのかが注目されます。