クラブEKOと、その始まり!

音楽の広場

1992年の3月に、僕らスェーデンの「ロックグループEKO」が初めて日本を訪れ、日本公演ツアーを行いました。

日本人の僕を除いたメンバーとスタッフは、もちろん日本については全くイメージがなく、また迎える日本の人たちも…障害を持つ人が中心のロックグループといっても、それがどんなものか見当がつかない…というところでのスタートでした。

その時は、大阪を手始めに全国10都市を7週間で回りましたが、どこでも会場は大きいところで、主催者側の皆さんも採算が合うかどうか分からず…全く手探りの状態で、とにかくいろいろな団体が懸命になって協力し合い、結局はどこの街でも公演は成功に終わりましたが、公演が終わった後の打ち上げはいろんな団体やボランティアの人たちが集まって、本当に感動的なものでした。

この感動は、単に公演が成功だったということよりも、今までそれほど交流がなかったり、中には反目しあっていたような団体同士が、公演のために一緒になって協力し合ったこと、そしてそれが成功して喜びを分かち合えたことから生まれたんだと思います。

1992年といえば、ちょうど国連の「障害者に関する世界行動計画10周年」の最終年にあたり、日本でも全国各地で大掛かりなイベントが計画された年でもありますし、また日本では90年代を迎えて、「施設から地域での福祉へ」という動きや、ノーマライゼーションという言葉や概念が社会に広がり始めた時期でもありました。

そのため、この年はいろいろな企画が計画されましたが、「ロックグループEKO」の日本公演も、大阪で行われた「とっておきの芸術祭」というイベントにその一環として招聘されたわけです。

そういう経過の中で、招聘元であった奈良市の法人「たんぽぽの家」のネットワークによって、各地でイベントが企画され注目が集まっていました。

今までイベントというのはたくさん行われてきましたが、今回は海外から総勢20数人の大きなグループの招聘とあって、予定された会場も各地の公民館や大きな会場で、採算が合うためにも会場はそれこそ満席にしなければなりません。

ところが、肝心の「スウェーデンからの知的障害者のプロのロックバンド」と言っても、今まで誰も見たことも聞いたこともなく、要は「取らぬ狸の皮算用」でチケットの販売と観客確保をしなければならない状況でした。

そのため、公演が赤字になれば、「誰それの自動車を売る!」とか、「全員でお菓子の販売をやる」とか議論された開催地もあったということも聞きました。

また、今までこれほど大掛かりな企画も少なかったため、いろいろな団体が連携してイベントを立ち上げることはなかったのですが、ひとつにはイベントの採算が取れるようにということと、二つ目には、今まであまり陽の目を見ることのなかった障害者についての関心を、この機会に市民や行政に訴えたいという障害者の各種団体の要望や期待もあって…

企画を成功させるために、普段はあまり同じ企画を共同で作業しない施設の団体と家族や親の会の団体、あるいはその頃はまだ少数ではありましたが当事者の団体など、いろいろな団体が共同作業を行い、結果的には、それがそれ以降の障害者の運動に良い体験と影響をもたらすことになったわけです。

翌年の93年には、スウェーデンの知的障害者と交流する研修ツアーが行われ、また当時EKOのリーダーでEKOデイセンター所長でもあった僕も日本を訪れ、スウェーデンの福祉や音楽療法などについてのワークショップや講演を行うようになりました。

このように公演ツアーをきっかけに日本とスウェーデンの交流も深まり、その度に、スウェーデンの福祉の様子もより早く日本に伝わるようになると共に、日本での障害者福祉についての課題や展望などについて、交流の中で話されるようになりました。

翌年の1994年には第2回目のEKO日本公演ツアーが行われましたが、初回の公演ツアー以来のいろいろな交流の中で、当時の日本の障害者福祉の状況の中から、お互いに共感するものを、さらに広く、深く話し合う場を持ち、またそれぞれの想いを実現していきたいという声が聞こえるようになりました。

そして、96年年の公演ツアーで行われた伊勢市の公演で共演したグループ「まんどろ」のリーダーであった吉田豊さんをはじめ、東京都多摩市の島田療育センターや横浜市の惠和館、御殿場市の御殿場コロニーの職員や音楽グループのスタッフ、また松江市の音楽グループのスタッフなどの協力を得て、さらには、当時の障害者福祉に関わる様々なジャンルの人たちの後押しを受けながら、1995年に「響き合いのネットワーク クラブEKO」がスタートしました。

その後の活動の様子、また現在の状況については、別コーナーに寄稿します。

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