ハンディキャップということ
「元の状態に回復させる」ためのリハビリテーションではなく、「持っている機能を生かしてさらに発達させる」というハビリテーションの考え方は、障害という事について今まで私たちが持っていた概念や姿勢などについて、考え直す必要性をもたらしました。
つまり、ハビリテーションという観点から見ると、障害自体がハンディカップなのではなく、ハンディカップは、その障害を持つ状況が周りに適応しない場合に生ずるということです。
例えば、メガネやコンタクトレンズを必要とする人は、強度ではないにしろ、いわゆる視覚に障害があるわけですが、暗闇の中や眠っている間は、メガネやコンタクトレンズがなくても、もともと見ることをしないので、それが全然問題にはなりません。
また、一人で目を瞑って考え事をする時など、要するにものを見る必要がない時は、それは不自由とはなりません。
ところが、何かを見る必要がある場合には、ものが良く見えないということは不自由であり、生活をする上でハンディが生じます。
それでメガネを必要とするわけですが、メガネをかけると、「ものが良く見えない」というハンディはなくなります。
つまり、障害はハンディカップとは同義語ではないということです。
この観点が、やがては国連においてWHOの国際障害分類(ICIDH)の基盤となり、1980年の分類では機能障害→能力障害→社会的な不利=ハンディカップというように定義されるようになりました。
また、障害がハンディとならないようにするためには、障害を持つ人を周りの状況に合わそうとするのではなく、周りの状況を、障害を持つ人の条件に近づける対応が必要になるということです。
メガネになること
一般的に、メガネやコンタクトレンズを使用している人のほとんどは、自分が視覚障害を持っているということは、普段考えないでしょう。
昔はともかく、今はメガネをかけたりコンタクトレンズを使用するというのは「誰でもしている」ことで、他から見ても「あの人は視覚障害者である」という見方はされないのが普通です。
なぜかというと、つまり近視や遠視などでメガネをかけると普通に生活できますから、自分でも障害を持っているということを意識しないで済むわけです。
視覚障害に限らず、他の障害を持つ人も、何かの手段や補助があって生活に支障がなければ、障害という概念も変わってきます。
ハビリテーションを適応化していくということは、極端な例えですが、つまりは「メガネになる」とも言えるのではないでしょうか。
曜日は色で覚えれば…
ハビリテーションの具体化では、例えば駅などで車イスを使う人にはエレベーターが必要というような社会的な対応もありますが、
認知や知的な機能に障害がある人には、いろいろな概念や考え方を我々の概念や知識に近寄せようというのではなく、彼らの能力や思考に合わせていくという姿勢が必要になります。
ここで、教育的なことを考えてみましょう。
左の写真は、ストックホルム市にある重度の知的障害児の養護学校です。
手にしているものは色のついた布地ですが、実はこのそれぞれの色は曜日を意味しています。
重度の知的障害を持つ児童に曜日を教えようとしても、「月曜日」と「火曜日」は何がどう違うのか理解することが難しい場合がありますし、言葉や文字も理解できないことがほとんどです。
この場合、重度な障害ということで「ゆっくり教える」といっても、重度な知的障害を持つと、その言葉自体の概念がわかりません。
しかし、これを色で例えるとすると、色という視覚的なものはその違いが理解できます。「今日はこの色の日、次はこの色の日」ということであれば、日が違うことの概念も覚えやすくなるでしょう。
このようにして、スウェーデンの重度・知的障害児の養護学校やデイセンターなどでは、全国共通の「色のカレンダー」があります。月曜日は緑、火曜日は青・・・という具合です。
つまり、重度の知的障害児のほとんどが理解できない概念である、曜日のことばやその文字を教えようとするのではなく、要はその違いが理解できるような方法を選択するということがより重要です。
ハンディキャップということは、つまりは「自分が抱える障害自体がハンディカップなのではなく、ハンディカップは、その自分の持つ状況が周りに適応しない場合」に生ずるということだとすれば…
ハビリテーションを行うためには、
「こちら側の状況に合わせて、その人を矯正したり教育する姿勢」ではなく、「その人の状況に、こちら側の条件が合うよう」に、どのようにすればそれが可能であるかを考えること、そしてその姿勢を保つことが必要です。