⚫︎デイセンターで音楽のグループを作る
1979年に、当時スウェーデン最後の入所施設として閉鎖されたビョーンクッラに勤務した僕は、その後1981年にストックホルム県援護局の介護支援職員養成所での養成課程を修了すると、ストックホルム市の東に隣接するナッカ市にあるエクトルプ・デイセンターに勤務するようになりました。
その頃ストックホルム県内では、大きな施設が次々と閉鎖に向かっていましたが、それに対応してグループホームの建設と同時に、知的障害者の日中活動を保証するという目的で、ストックホルム市内や郊外のコミューンのあちこちで、デイセンターが設置されていました。
当時のデイセンターは、まだ知的障害者をやがては労働市場へ送り出すということを目的としていた頃で、デイセンターの利用者も比較的障害の軽い人が多く、作業も授産や生産を目的としていたものが多くありました。
そのため、デイセンターの規模も利用者が30人以上という、今からみれば大きなものがほとんどでした。
しかし、僕が勤めてそれから1年もしないうちに、入所施設の閉鎖によって日中活動の場が必要になってきた重度の障害を持つ人や、今まで家庭の中にいて日中外に出ることの少なかった重度の障害を持つ人たちが、日中活動の充実を求めてデイセンターに通うようになってきました。
音楽担当職員として勤め始めた頃の僕の音楽活動は、約35名の利用者をいくつかのグループに分けて音楽の時間を持つことや、ドラマ活動に関心のある職員と協力して、音楽とドラマを組み合わせた活動なども試みてみました。
ところが一年もすると、利用者の障害の重度化という現実に、デイセンターもその活動内容の変更に迫られ、僕は音楽活動もするが、その他にも普通のグループ活動も担当しなくてはならないという状況が出てきました。
元々音楽の活動に興味のあった僕は、やはり利用者との音楽活動に専念したいという思いを捨て切れず、ちょうどその年に開設された王立ストックホルム音楽大学の音楽セラピー科に入学を申請して、試験に合格して入学が認められると同時にエクトルプ・デイセンターを退職しました。
当時ストックホルム市には、知的障害を持つ人が5000人以上いると言われていました。知的障害者の多くは、他の機能障害も重複して持っている場合が多いので、彼らを一つのカテゴリーに当てはめるということはできませんが、5000人ということは、5000通りの個性があるということでもあります。
知的障害を持つ人との音楽や音楽療法について学ぶなら、より多くの人を知り、いろんな体験をしてみたい…、
そんな動機で、僕は市内のいくつかのデイセンターを回り、出来るだけ多くのセッションの機会を作りたいと思いました。
そこで、王立音大音楽セラピー科の基礎過程を修了すると、現場に飛び込むことを決めたわけです。
一般的に、デイセンターはいくつかの作業グループに分かれていて、普通は、一つの作業グループは5名から10名くらいの利用者と、それに見合った数人の職員で構成されています。
音楽のグループを作るに際しては、デイセンター側にも様々な考えや都合というものがあったし、利用者の障害のレベルも様々で、また作業をするに当たって、どういう形で行うのがベストであるかというような明確な方法論を持ち合わせている現場もそれほど多いわけではありませんでしたが…
それでも音楽をすると利用者が生き生きするということで、音楽活動への期待も大きくなっていました。
まずやってみなければ分からないというところから、音楽グループを作るときには、現場の意向も聞き、現場の状況に合わせて、少人数のグループや、場合によってはいくつかの作業グループを合わせた20人くらいの大きなグループなどを作りました。
そして、それらの一つ一つを学習サークルにして、僕はそのサークルの指導員という形で活動を始めました。
音楽セッションのグループには、必ずそれぞれの作業グループの職員にも入ってもらいました。
それは単なるサポートということではなく、音楽の時間に起こる様々なコミュニケーションを日常的な作業に活かすということも、音楽活動の目的の一つでもあったからです。
こうして、1985年には、市内の約10ヶ所のデイセンターで、週に合計で22のグループとセッションすることになりました。
⚫︎エクトルプ・デイセンター
その22のグループの中には、初めに述べたエクトルプ・デイセンターでの二つのグループがありました。
王立音大入学と同時に一度は退職したデイセンターでしたが、今度はまた違った形で音楽を担当するために戻ってきたわけです。
戻ってみると、そのデイセンターの様子が前とは違っているのに気がつきました。
所長が替わって、ウラ・ティデストロムという、特別支援学校の教師経験者で意欲的な女史が、僕が戻るのとはほとんど同じ時期に所長としてやってきていたのです。
ここで、ちょっと作業の方法論に触れておきたいのですが…
デイセンターでの利用者の構成が、軽度の障害者と重度の障害者で混成されたものになるにつれて、デイセンターでの作業を行う上での方法論がいろいろと考えられていました。
中でも、SIVUSという方法論が、80年代にあちこちで語られました。
要約すれば、作業のグループを形成する際に、そのグループの利用者メンバーの「何ができるか」を重視して障害のレベルに分けるのではなく、「何に関心があるか」によって軽度も重度も混じったグループを構成して、作業はそれぞれが出来ることを行うことによって、合わせて総合的に行うというものです。
この方法論は、実際には60年代の終わりに県の援護局の要望もあって研究されたものですが、70年代の終わりから80年代にかけて、デイセンターでの活動が生産性を追うよりも作業そのものの内容を充実させる方向に変わり、また利用者の構成がより混成されてきたことで、意欲的なデイセンターの中で試行されてきました。
しかし、この方法論で作業を進めても、結果的にはより重度の人は作業についていけず、側で置き去りの状態になることが多いということがいろいろな実践で分かってきました。
やがてこの方法論を取り上げることも少なくなり、むしろ混成グループを形成するよりも、「どんなニーズがあるか」という視点で、同質的なグループを作っていく方法が主流になってきました。
エクトルプ・デイセンターが開設された1981年頃は、そのSIVUS方式が試行されていた頃で、ここでもSIVUS方式についての議論もされていました。
またグループの作り方も、「統合=インテグレーション」の理念の下に、基本的には「混成グループ」にしようということで、いろいろな試みも行われました。
しかし新しい所長は、デイセンターの作業を、今までの生産指向的なものから、障害者が自己意識を持ち、その上で生き甲斐を感じる作業という方向に転換したいという意欲を持っていて、職員への啓蒙やデイセンター全体の意識改革にエネルギーを注ぎました。
そこで彼女は、同じ頃に始まった僕のセッションにも進んで参加して、音楽がグループにもたらすグループ意識の向上や、集団の中で一人一人が自分を発揮する姿を目の当たりにして、また音楽の時間が終わっても続く余韻というものを体験したことによって、デイセンターの進むべき方向を確信したようでもありました。
所長は、音楽の時間が終わると、デイセンター中の誰彼となく「素晴らしい時間だった」と感想を言い、音楽の時間が始まる頃になると、自分から進んで「音楽が始まるよ〜」と触れ回ったりもしました。
僕が他のデイセンターでセッションを行ったグループの中には、混成グループもたくさんありましたし、またエクトルプのように同質のグループもありましたが、どちらにもそれなりの方法は取れるにしても、やはり同質のグループの方がきめの細かいアプローチが出来ます。
特に重度の障害を持つメンバーがいる場合には、同質グループの方が一人一人の反応に対応しやすいものです。
そのため、セッションの中でそれぞれの反応はより顕著になるし、また周りでサポートしている職員も、普段の日中活動ではなかなか見られないメンバーの反応が、音楽することによって顕著に現れることを、一緒に音楽しながら感じ取ることも出来ます。
エクトルプ・デイセンターの所長が、作業グループを混成ではなく同質のグループに編成替えをして一人一人のニーズに応えようとした試みの成果は、音楽でのグループ・ダイナミックの展開を体験することで実感できたし、また音楽の時間に生み出される共感が、デイセンター全体の意識をまとめる活力にもなっていった過程でも見ることができました。
⚫︎音楽療法としての音楽の時間
他のデイセンターでも音楽活動は歓迎されましたが、職員やデイセンター全体の音楽活動への反応はエクトルプ・デイセンターほどではありませんでした。
いかに利用者が音楽の時間に活発であったとしても、それはその時だけで、その時間が終わってしまえば、またいつもの自分たちの活動に戻るわけです。
しかし、エクトルプ・デイセンターはちょっと違っていました。
何よりも、そこで行う音楽の時間を音楽セラピーと考えていたのです。
そのため、僕はデイセンター全体の職員と音楽や音楽セラピーについて話をする機会も与えられましたし、また外部から講師を呼んで、知的障害やそれに関したことを学ぶ講座を開いたりもしました。
所長はまた、県の援護局の職員や教育関係の人、あるいは所長を訪ねてきた人など、外部の人間も音楽の時間に一緒に参加してもらうなどして、デイセンターが音楽をセラピーとして取り上げていることを積極的に見せたりもしました。
そのため、重度のグループでは職員たちのサポートもきめ細やかになって、サポートのスキルも向上していきました。
重度の障害を持つ人とのセッションでは、リーダーである僕の音の出し方、それぞれに対応する姿勢や距離間など、細心の注意を払いながら進める必要があります。
またサポートする職員の方としても、手助けした方が良いのかあるいは手を出さない方が良いのかということや、声をかけるタイミングなど、適切なサポートをするための集中力も大事になります。
そういうことも、セッションを進めるに従って会得していうようになりました。
サポートの職員もセッションのメンバーとして参加するということは、音楽をする時には、普段の職員と利用者という関係の垣根がなくなることをも意味します。
そして、その垣根のないところでの適切なサポートを職員が行うことによって、グループのダイナミックな展開はより大きく広がっていきました。
デイセンターでは、音楽の輪が広がっていくにつれて、グループをもう二つ作り、35名の利用者全体が週に一度は音楽活動に参加するように編成替えもしました。
当時のエクトルプ・デイセンターには、いわゆる軽度の障害を持つ人は移動していくなどでほとんどいなくなり、12・3名の重度障害者の他は中度の障害を持つ利用者でしたが、デイセンターでの音楽活動を始めてから2ヶ月ほどして、重度障害者のグループと、中度障害者のグループと、合わせて四つのグループが出来上がりました。
重度のグループにはサポートの職員がマンツーマンでつき、中度のグループにはそれぞれ3名から4名の職員がサポートにつきました。こうして、エクトルプ・デイセンターでは、音楽のセッションに対応するサポート体制が次第に出来上がっていきました。